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この先について – ひふみ神示 番外編
「解釈8」の続きを書こうと考えていたのですが、いまの自分はまだ書ける段階にないような思いや、気力が湧かないというか、変に焦った気持ちになって混乱してしまっている感じもするので、しばらくはこれについて考えたり書いたりするのをやめようと思います。
そのため、今回はこの先に書こうと予定していた三つの投稿の内容を簡潔にまとめて箇条書きにしていきます。ここに記した内容はあくまでも現段階での予定のものなので、実際の投稿では大きく違っているかもしれません。ご了承ください。
ひふみ神示を知らない方は、「 ひふみ神示 解釈1 」を読んでいただけると、少し分かりやすいと思います。全文は「 ひふみ神示データー 」というサイトに載っています。また、このサイトを参考にさせていただきながら、「スマートフォンの表示にも対応したサイト」を作成したので、こちらもぜひ覗いてみてください。
目次
投稿予定1「禁断の果実と善悪なき世 – ひふみ神示 解釈8の2」
『もう化けては居られん。化けの世はすんだのであるから、人民ウソしてはならんぞ。嘘見分ける鏡 与へてあるぞ。早う改心なされ。仏の取り次ぎ、キリストの取り次ぎ、天理、金光、大本の取り次ぎさん、早う改心結構ぞ。アラーの取り次ぎさん、道教も同様ぞ。人間はいつも創られつつあるものぞ。これでよいと云ふことはないぞ。ゴッドも仏も神も皆その通りざぞ。世の中も、大千世界も亦同様ぞ、つくられつつあるのぞ。愛と云ひ真と云ふも皆方便ぞ。何れも誠の現われであるぞ。はうべんの世はすみてハウベンの世となるぞ。そのハウベンの世すみて誠の世となるのぢゃ。善悪なき世となるのぢゃ。判りたか。かのととりの日。一二十(ヒツキノカミ)』(黄金の巻 第十帖)
- 霊魂の各部分に”善(引力)”と”悪(斥力)”のはたらきがある
- 「奇魂(理知)」は”知識”や”技術”などに関するものだが、それらは”分類”や”理解”などの「櫛」に伴う”分離(悪)”と、”集約”や”総括”などの「串」に伴う”統合・統一(善)”としてのはたらきがある
- 「幸魂(欲望)」は”利益”や”快楽”などに関するものだが、それらは”採取”や”剥奪”などの「裂」に伴う”分離(悪)”と、”繁殖”や”栄華”などの「咲」に伴う”統合・統一(善)”としてのはたらきがある
- 「荒魂(気概)」は”勇敢”や”忍耐”などに関するものだが、それらは”攻勢”や”開拓”などの「新」に伴う”不安定(悪)”と、”守勢”や”持続”などの「現」に伴う”安定(善)”としてのはたらきがある
- 「和魂(寛容)」は”受容”や”傾聴”などに関するものだが、それらは”多様”や”高揚”などの「賑」に伴う”不安定(悪)”と、”一様”や”平穏”などの「握」に伴う”安定(善)”としてのはたらきがある
- 「和魂(寛容)」において、”一様化”による”安定”が”安心感”を生み、一部の者にとっては”善”と感じるが、同化政策のように”引力(善)”があまりに強力になれば、その他の者の反発や崩潰を招く
- “疎外感”などの〈不幸〉は”悪”と感じるもので、多量だと凶悪犯罪を生み出す”毒”にもなるが、適量であれば他者を理解し受け入れるための”薬”にもなる
- 〈不幸〉は適量必要だが、全体的な方向性は〈幸福〉であることが重要
- 〈善悪〉には”外道”がある
- 『それが善であっても、己のためのみならば死し、善のための善ならば弥栄えるぞ。善にも外道の善あるぞ。心せよ。神示見て居らぬとびっくりが出てくるぞ。この世始まってないことが出てくるのぢゃ、世界の片はし八まべからぞ』(月光の巻 第五十四帖)
不正なひととは過多をむさぼるたちのひとであるとする場合、それは種々の善なるものごとについてであろう。
アリストテレス. ニコマコス倫理学(上). 高田三郎 訳. 岩波書店. 1971(2022). p.222
- “外道の善”による富や権力の占有(引力)は、その歪みを解消するために正反対の力を必要とし、それが”外道の悪”による犯罪や戦争といった破壊(斥力)に繋がる
- 両極端に陥りがちだが、両翼が正常に機能しなければ飛ぶことはできず、天使でさえも堕天となる
- フランス革命期の議会において右翼・左翼という言葉が生まれた
- 市民の生活がままならないほど王や聖職者や貴族への権力や財力の”集中(外道の善)”を望んだ人たちを「右翼」、農民や市民を含む第三身分と呼ばれる人々にまで破壊的な方法で権力や財力の”分散(外道の悪)”を望んだ人たち「左翼」と呼んだ
- 宗教が”極端な引力(外道の善)”によって同化を進めるため、その反対に”極端な斥力(外道の悪)”を必要とし、悪魔的な存在を意図的に求めたのではないか
- 国常立尊(ルシフェル)、弥勒(666)などを悪魔的なものとすることで”極端な引力”を生み出したのではないか
- 『悪の衣(ころも)着せられて節分に押込められし神々様御出でましぞ。此の節分からは愈々神の規則通りになるのざから気つけておくぞ、容赦(ようしゃ)は無いのざぞ』(日の出の巻 第十六帖)
- 『五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ』(碧玉之巻 第十五帖)
- 都合の悪い神様を閉じ込めて、自分たちにとって有用(有益)な都合の良い神様のみを信仰し、大きな歪みが生じた
- “外道の善悪”は、一霊が〈魂の玉座(神の道) = 中土 = 直霊(直日)〉になく、四魂に王座を奪われることで”超過”や”不足”という奴隷状態に陥り、悪自由・悪平等となることで最終的に全体を分裂・崩壊(斥力)させる
- “外道の善”はブラックホールのようなもの、”外道の悪”はダークエネルギーのようなもので、”引力”と”斥力”の逸脱はどちらも”闇”を生み出す
- プラトンは『国家』において、優秀者支配制(知を愛する者の支配)(理知的部分が王座) > 名誉支配制(勝利を愛する者の支配)(気概の部分が王座) > 寡頭制(気概の部分と欲望的部分が王座) > 民主制(利得を愛する者の支配)(欲望的部分が王座)> 僭主独裁制(寛容の部分が王座)へと国制とその住民の魂の状態が変遷していくと述べたが、それぞれの状態において王座にある部分を目指すべき”善”とすることで、それに支配され奪い合った
- 優秀者は他者を退けるための誰よりも高い知能(理知の超過)を求め、僭主独裁者は自分のみが何をしても許されるという(寛容の超過)を求めた
- 『学問の世はすみたぞ、学者は閉口するぞ、商売の世も済みたから商売人も閉口するぞ』(三ラの巻(ソラの巻) 第十二帖)
- 『偽(にせ)の愛、偽(にせ)の智と申すのは、神を信じない人民の愛と智であることを知れよ、この人民たちは神の声を聞いても聞こへず、神の現れを見ても見へないのであるぞ、目をとぢ耳にふたしてゐるからぞ、今の人民よ学者よ金持よ、早う考へ方を変へねば間に合わん、心の窓 早うひらけよ』(星座之巻 第十六帖)
- 宗教的独裁は従う者への寛容の超過と、従わない者への寛容の不足(不寛容)が生じる。異端審問など
- 民主政や共和制の時代の後に宗教的独裁の時代が訪れるのだとすれば、今の時代はその狭間の時代にあるのかもしれない。人工知能を神とする監視社会は、異端審問的な時代と類似する?それを回避するには?
- “外道”は夜明けがくれば消えてしまう
- 『外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。善のみで善ならず。悪のみで悪ならず。外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。夜明けの御用大切と申してあろうが。外道の悪 殺すでないぞ。抱き参らすから消えるのであるぞ』(春の巻 第四十三帖)
- “中道(正道)の善悪”は、善自由・善平等が最終的に全体を調和・結合(引力)させ、友愛(博愛)となる
- “中道(正道)の善悪”は太陽の核融合と放射のようなものであり、バランスのとれた”引力”と”斥力”は”光”を生み出す
- 霊魂においても〈善悪〉のバランスが重要で、中庸や中道がそれにあたる
- 魂の各部分に王座を明け渡して奴隷となるのではなく、自らが玉座に鎮座し魂の各部分をコントロールする
- 『放っておいても神に背くものは自滅して行き、従ふものは弥栄えて行くぞ。其処に神の能(ハタラキ)、よくさとりて下されよ。人間の処理方法と神の処理方法と融和せねばならん。急がねばならず、急いでは谷底に落ちて出来損なふぞ。ありとあるもの、何んでも彼んでも天地の御用持ってゐるのぞ。そのものの勝手な道は許さんぞ。大き喜びの中に、小さい自分の喜び大きく栄えるぞ。大きな生命の中にこそ小さい自分のマコトの喜びが弥栄えるのであるぞ。判りたか』(黄金の巻 第八十七帖)
- 森羅万象を司る究極的な大神様は自己自身の中ですべてが完結(自足)しているように、他人や他国という認識を段階的に自己へ統合・統一していき、他者から略奪するような「裏の喜び(禁断の果実)」に依存するのではなく、他者の喜びを自己の喜びとしながら喜びにとけ入ることで「足るを知る(自足的な状態)」となる
- 『人間心には我(が)があるぞ。神心には我がないぞ。我がなくてもならんぞ、我があってはならんぞ。我がなくてはならず、あってはならん道理分りたか。神にとけ入れよ。てんし様にとけ入れよ。我なくせ、我出せよ』(水の巻 第十二帖)
- 自分にとっての御利益(有用(有益)な善)のみを求めて神に祈るのではなく、全体の調和を意識することが大切
- 『はらひは結構であるが、厄はらひのみでは結構とはならんぞ。それは丁度、悪をなくすれば善のみの地上天国が来ると思って、悪をなくすることに努力した結果が、今日の大混乱を来したのと同じであるぞ。
よく考えて下されよ。善と申すも悪と云うも、皆悉く大神の肚の中であるぞ。大神が許し給へばこそ存在してゐるのであるぞ。この道理をよく会得せよ。
はらふと申すのは無くすることではないぞ。調和することぞ。和して弥栄することぞ』(月光の巻 第二十七帖) - 『厄も祓はねばならんが、福も祓はねばならん。福はらひせよと申してあらうが。厄のみでは祓ひにならん。福のみでも祓ひにならんぞ。厄ばらひのみしたから今日の乱れた世相となったのぢゃ。この判り切った道理が何故に判らんのか。悪を抱き参らせよ。善も抱き参らせよ。抱くには
にならねばならんぞ』(月光の巻 第二十八帖)
- 人類が”善(引力)”と”悪(斥力)”を自らの意志の力でコントロールできるようになれば、「善悪ない世(光の世)」が訪れる
- 『悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ』(松の巻 第二十二帖)
投稿予定2「生命の樹・水と王の王による健康的な支配 – ひふみ神示 解釈9」
『生命の樹、生命の水を間違へて下さるなよ。樹とはキであるぞ、水とは道であるぞ、樹と水にたとへてあるを、そのままにとるから、囚われた迷信となるのぢゃ』(碧玉之巻 第三帖)
- 「〈健康〉とは、構造全体を構成する要素同士の関係がバランスを保ちながら結合・調和し、各組織が可能な限り正常に機能することによって、より持続可能な方へ向かっている状態である」
- 「〈不健康〉とは、構造全体を構成する要素同士の関係がバランスを崩すことで分裂・衝突し、各組織が機能異常を引き起こすことによって、より持続不可能な方へ向かっている状態である」
- “疾病や病弱”であったとしても〈健康〉から切り離された状態になるわけではない
- 疾病を抱える人もさらなる疾病を予防するために”健康管理”が必要になる
- 〈健康〉の語源である「健体康心」が示すように、肉体だけでなく精神や心に至るまで関わっている
- 精神的なストレスが臓器などの物質に悪影響を及ぼし、肉体的な疾病を引き起こす可能性もある
- 〈健康〉は一個人のみに関わるものではなく、外部環境を含めた全体と関わるものである
- 「Health(健康)」はギリシャ語の「Holos(全体性)」を語源としている
- 住環境(アスベストなど)や公害(大気汚染や水質汚濁など)から”健康被害”となる可能性がある
- 自然本性的な支配が〈健康〉をもたらす
- 逆に劣悪な支配は〈不健康〉となり、内部分裂によって構造体に疾病をもたらす
- 卓越した芸術家や競技者は”健康管理”を怠らず手足や道具を大切に扱うのと同様に、卓越した支配者は支配する構造全体の”健康管理”を怠らず被支配者を大切に扱う
支配の仕方が劣悪になれば、支配者と被支配者いずれのためにもならない。というのも、部分と全体の関係にある二者に対しては同じものが両者のためになるからであり、身体と魂の関係もそうであるし、所有物という意味で主人の一部(すなわち、命を持ち、主人の身体から離れて存在するような部分)になっている奴隷と主人の関係もそうである。
アリストテレス. 政治学(上). 三浦洋 訳. 光文社. 2023. p.62
それゆえ、自然に基づき、それぞれの自然本性にふさわしい仕方で奴隷と主人が関係を結んでいるときには、何か両者のためになることも存在すれば、互いに友愛も存在するのである。それに対し、自然に基づいてではなく法に基づき、強制的に両者の関係が作られているときには正反対の結果が生じるのである。
- 自然本性的な支配者が支配していないため、人類全体が病気になっている
- 本来、貴族とは草食動物の存在に依存する肉食動物のようなものではなく、身体が正常な機能を果たすために必要不可欠な中枢神経のようなものなのではないか
- 正常な機能を果たさないガン細胞は資源を貪ることで裕福になる一方、資源を奪われた正常な細胞はやせ細っていく
- 暴飲暴食によって糖尿病を患うと神経障害によって末端の感覚が鈍るように、逸脱した富の占有が進行するにつれ支配の枢軸に末端の痛みが伝わらなくなっていく
- 人類全体を一つの構造体と考えたとき、支配の枢軸が”善”の場合には内部の組織同士が結合・調和しながら正常に機能するが、支配の枢軸が”悪”の場合には内部の組織同士が分裂・衝突しながら機能を失っていく
- 戦争は病の一つである
- 『臣民も動物も草木も病なくなれば、世界一度に光るのぞ、岩戸開けるのぞ。戦も病の一つであるぞ』(天つ巻 第二十九帖)
- 病気を治すためには治療が必要
- 預言のたぐいは、もしかしたら医者による将来予測的な診断のようなものなのかもしれない
- 哲学者や聖人と呼ばれるような人々の言葉は、もしかしたら薬物療法のようなものなのかもしれない
- 疾患を取り除いて完治を目指すためには外科治療が必要になる場合もある
- 核兵器などの大量破壊兵器は、人類という構造体を完全に破壊する可能性のある重大な潜在的疾患である
- もともと単細胞生物だった人体の細胞たちにとって、通り魔による傷害と医者による執刀の区別がつかないように、超越的な存在からの影響が人類全体にとって”悪”となるか”善”となるかは結果的にしかわからない
- 『建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいに塵一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度は何処までもきれいさっぱりと建替するのざぞ。建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ。てんし様の御稜威(みいつ)輝く御代とする事ぞ。政治も経済も何もかもなくなるぞ。食べるものも一時は無くなって仕舞ふぞ。覚悟なされよ』(水の巻 第十二帖)
- 王の王はてんし様であり、自然本性的な支配者である
- 『天地の先祖、元の神の天詞(てんし)様が王の王と現はれなさるぞ、王の王はタマで御現はれなされるのざぞ』(アメの巻 第十七帖)
- 『世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らすぞ。その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ。旧きものまかりて、また新しくなるのぞ、その心々(こころこころ)の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ』(地(九二)つ巻 第十一帖)
- 国制は、王(精神)、貴族(神経)、民衆(各組織の実質的な機能)が一体となり、貴賤上下なく構造全体が調和した関係となる
- 庭園の樹木や花を美しく育てるように、人々の〈徳〉を美しく育てるのが本当の支配者である
- 美しい花を咲かせる可能性のある種であっても、その花にとって適量な日光や水やりでなければ根が腐ったり枯れたりしてしまう
- 可能性(デュナミス)と、適切な活動(エネルゲイア)によって、〈徳〉の完成がある(エンテレケイア)
- 〈徳〉よりも以上の財貨の獲得などは、人や組織の根本を腐らせ、〈徳〉の歪みは醜さとなる
- 卓越した可能性のある〈徳〉であっても、その成長の機会が奪われてしまえば、開花せずに枯れてしまう
- 生命のキ(樹)は可能性であり、生命の道(水)はそれを育てための活動であり、それらが揃って〈徳〉の完成がある
- 『喜びに生きて、喜びに囚はれるなよ。お互に喜びの湧き出づることでなければ真の愛でないぞ。理(ミチ)でないぞ。天国に理あると申すが、今の人間の申したり、考へたりするやうな道でないぞ。道なき理と申してあらうが。喜びが理であるぞ。嬉し嬉しの理、早う合点せよ。生命栄えるもの皆喜びであるぞ。信仰とは、その喜びの中にとけ入ることぞ。生も死もなくなるのざ。時間や空間を入れるから、知(血)、通はなくなるのぞ』(白銀の巻 第三帖)
人間は至高の善なる神によってつくられたと信じることが宗教の要素であるならば、信仰の一貫性を保つには、つぎのことも信じたほうがいいだろう。すなわち、神が人間に種々の能力を授けたのは、後で根こそぎ引き抜いて枯れ死にさせるためではなくて、人間にその能力を育てさせ、開花させるためである。また、神は自分が創造した人間たちが、神の意図どおり理想的な人間に近づけば近づくほど喜ぶはずだ。つまり、人間が理解する力、行動する力、楽しむ力を増せば増すほど、神は喜ぶはずだ。
ミル. 自由論. 斉藤悦則 訳. 光文社. 2012(2021). pp.151-152
- 世界の民を統べる器を有する(自然本性的な)支配者の究極目的は結局のところ共通している
- 自らの民(全人類)の幸福 = 最高善 = すべての〈徳〉の開花
投稿予定3「光の世の到来とイザナギ、イザナミの結び。 − ひふみ神示 解釈10」
『世変りたら生命長くなるぞ。今迄 上にあがりて楽してゐた守護神は大峠越せん事になるぞ。肉体あるうちに改心しておかんと、霊になっての改心なかなかぞ。悪も御苦労の御役。此の方について御座れ。手引いて助けてやると申してあろが。悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ』(松の巻 第二十二帖)
- 人類が善悪の対立を超克することで夜が明け、光の世が訪れる
- 『宇宙は人間の心のままと申してあらうが。宇宙は未完成のものと申してあらうが。永遠に未完成であり、弥栄であるぞ。そこに生命あり、喜びあるのぢゃ。大神の中で、宇宙はなりなりてゐるのであるから、ナリ、永遠になるのであるぞ。不変の中に千変万化、自由自在の存在を与へてあるのぢゃ』(黒鉄の巻 第三十七帖)
- ブラックホールの極端な引力(外道の善)が弱まることで恒星となり光を放射するようになる
- ダークエネルギーの極端な斥力(外道の悪)が弱まることで光が多く到達するようになる
- 『今の臣民お日様明るいと思ふてゐるが、お日様、マコトの代のマコトのお日様どんなに明るいか見当とれまいがな。見て御座れ、見事な世と致してお目にかけるぞ、神示読みて聞かせてやれよ』(んめの巻(ウメの巻) 第十三帖)
- 『北から攻めて来るときが、この世の終り始めなり、天にお日様一つでないぞ、二つ三つ四つ出て来たら、この世の終りと思へかし、この世の終りは神国の始めと思へ臣民よ、神々様にも知らすぞよ、神はいつでもかかれるぞ、人の用意をいそぐぞよ』(富士の巻 第十六帖)
- 核戦争のようにも解釈できるが、天の川銀河の中心の超大質量ブラックホールや銀河団に存在するブラックホールが岩戸開きすることで、地球から複数の恒星が観測できるようになるのではないか
- 『いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ』(碧玉之巻 第十帖)
- 光の世には真の天空がある
- 『「イワトがひらけると更に九、十となるぞ。【かくしてある一厘の仕組、九十の経綸、成就した暁には何も彼も判る】」と申してあらうが。八つの世界とは、
、
、
、ア、オ、ウ、エ、イであるぞ。八は固、七は液、六は気、五はキ、四は霊の固、三は霊の液、二は霊の気、一は霊のキ、と考へてよいのぢゃ。キとは気の気であるぞ。その他に逆の力があるぞ。九と十であるぞ。その上に又霊の霊の個から始まってゐるのであるが、それはムの世界、無限の世界と心得よ。霊界に入って行けば、その一部は知れるなれど、皆直ちには判らないのであるぞ』(白銀の巻 第一帖) - 個体と素粒子(霊の固)、液体とエネルギー(霊の液)、気体とエーテル(アイテール)(霊の気)はそれぞれ対応するのではないか
- 実験でエーテルは存在しないとされたが、地球の周辺にあるのはダークマター(暗黒物質)などのエネルギー(”物質”と呼ばれているが)であり、エネルギーが液体の性質に近いとすれば、気体の性質に近いエーテルのほとんどはその外側にあるのではないか
- 人間が観測可能な光は、エネルギー(液)の中を進むエネルギー(液)なのではないか
- エーテル圧(気圧)によってエネルギー(液)は蒸発せずに留まっていられるのではないか
- 液体が固体へと変化するように、一部のエネルギーは素粒子へと変化する。E = mc²
- 液体に色々な種類があるように、エネルギーにも色々な種類があるのではないか
- ほぼ個体にならないヘリウムのように、音エネルギーなどはほぼ素粒子にならないのではないか
- 個体に近づくにつれ次の状態の予測がしやすくなる(情報が確度が高い)
- エーテルに近づくにつれ次の状態の予測がしにくくなる(情報の確度が低い)
- 二重スリット実験で、光子などは状態が確定(観測)すると粒子として捉えられるが、不確定な状態では波(液体に近い性質)として振る舞う。さらに不確定なエーテル状態の光はあるのか
- 僕たち人類は濁った池のような”仄暗い水の底から”宇宙を観察しているのかもしれない
- 『「イワトがひらけると更に九、十となるぞ。【かくしてある一厘の仕組、九十の経綸、成就した暁には何も彼も判る】」と申してあらうが。八つの世界とは、
私たちは、大地の窪地に住んでいることに気づかず、大地の上の方に住んでいると思いこんでいて、ちょうど次のような状態にある。つまり、或る者が大海の底の真ん中に住んでいるのに、自分が海より上に住んでいて、水を通して太陽や他の星々を観ているのに、海が天空であると信じている。だが、のろまさや非力さのゆえに、けっして海の頂点に達したり、海から私たちのいる場所へと出てきたり水面に顔を出したりして、こちらが自分たちのいる場所よりどれほど清浄で美しいかを見たこともなければ、見た者から聞いたこともない。
プラトン. パイドン──魂について. 納富信留 訳. 光文社. 2019(2024). pp.230-231
- 神世七代の神々から霊魂が生じたのではないか
- 東洋と西洋の神話や物語のイメージには、ある程度の共通点があるのではないか
- 国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、直霊(直日)を司る?
- 黄竜?ルシフェル(明けの明星)?
- 『その中に五色五頭の竜神(

二ん)が御ハタラキなされて、つくり固めなされたのぢゃ、今の人民は竜神(
二ん)と申せば、すぐ横を向いて耳をふさぐなれど、マコトのことを知らせねばならん時ざから、ことわけて申してゐるのぞ。竜神(
二ん)とは
神(理
)であるぞ、五色の竜神とは国常立尊の御現われの一(ヒトツ)であるぞ』(扶桑之巻 第二帖) - 『今の方向では東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられるのぢゃ、ウシトラとは東北であるぞ、ウシトラコンジンとは国常立尊で御座るぞ、地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神ぞ、始めの始め、終りの終りぞ、弥栄の弥栄ぞ、イシヅヱぞ』(扶桑之巻 第八帖)
- 『愈々が来たぞ、いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ、クニトコタチがクニヒロタチとなるぞ、クニは黄であるぞ、真中であるぞ』(紫金之巻 第十一帖)
- 豊雲野神(とよぐもぬのかみ) は、霊魂を結びつけるとともに状態の遷移を司る?
- 宇比地邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)は、奇魂を司る?
- “宇比地邇”の言葉は、”全体と部分”や”巨視と微視”の対比や近似を連想できる?
- “須比智邇”の言葉は、知覚(純粋経験)の分類・理解や体系的な智の対比や近似を連想できる?
- 青竜?ガブリエル?レイブンクロー(ワシ)?
- 角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)は、荒魂を司る?
- “角杙”の言葉は、相手に立ち向かう”気概”を連想できる?
- “活杙”の言葉は、生育や活動的な様子を連想できる?
- 赤竜?朱雀?ミカエル?グリフィンドール(ライオン)?
- 意富斗能地神(おおとのぢのかみ)・大斗乃弁神(おおとのべのかみ)は、幸魂を司る?
- 淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)は、和魂を司る?
- “淤母陀琉”の言葉は、陀(くずれる、やぶれる)や琉(王が?流れる?)などから敗れて流れるような悲しい様子を連想できる?
- “阿夜訶志古泥”の言葉は、阿(へつらう、こびる)や訶(せめる、しかる)などから自分を曲げて受け入れるような、恨みつらみなどの苦しい様子を連想できる?
- 『古事記』においてはここで不穏な雰囲気になるが、『日本書紀』においては面足尊・綾惶根尊となっており、この言葉から「足るを知る」表情だったり、折り重なった複雑な内情を凛とした表情で受け止めるような様子を連想できる?本来の姿?
- 黒竜?玄武?ウリエル?ハッフルパフ(アナグマ)?
- 玄武(亀)やアナグマなど”隠れる”イメージが共通している
- ウリエルはタルタロス(冥界)を見守るという説もある
- 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)は、霊魂の結合を司る?
- 『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ』(至恩之巻 第八帖)
- 和魂がうまく機能しなかったために互いに受け入れられず不和となり、岩戸しめとなったか?天照大御神が岩戸隠れしたことにも繋がる?
- 『千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ』(至恩之巻 第九帖)
- 伊邪那岐神と伊邪那美神の関係は、オルペウスとエウリュディケーの関係に例えられたりするが、アダムとリリスの関係にも似ている
- 伊邪那岐神もアダムも八方的な世界を産みだしたが、本来の世界は十方的なもの
- 『四と八によってなされたのであるから、森羅万象の悉(ことごと)くがその気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰りの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、
でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因はこれで判ったであろうがな』(至恩之巻 第六帖) - 『死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、神々様も森羅万象の悉くが同様であるぞ、しばらくの生みの苦しみ。八の世界から十の世界になるのであるから、今迄の八方的な考へ方、八方的な想念や肉体では生きては行かれんのであるぞ、十方的想念と肉体でなくてはならんぞ』(至恩之巻 第十三帖)
- 男性と女性の対等な立場での結びつきが重要である
- 『善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ。和すには同じあり方で、例へば五と五との立場で和すのであるが、位に於ては陽が中心であり、陰が外でなければならん。天が主であり地が従でなければならん。男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。さかさまならんぞ。これを公平と申すぞ』(月光の 第五十二帖)
- 主と従の関係はあったとしても、たとえば身体において脳からの司令があって手足が動き、手足の働きで食事することによって脳にも栄養が行き届くように、どちらも互いに気を配り必要とし尊重し合う関係である
- 『いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の治らす国もナミの命の治らす国も、双方からお互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ』(至恩之巻 第十一帖)
- 平面的な世界だった双方の霊魂が交わり立立体となる
- 『ウムと申すことは、自分をよりよく生長さすこと。一つ生めば自分は一段と上に昇る。この道理わかるであろうがな。産むことによって、自分が平面から立体になるのであるぞ』(夏の巻 第九帖)
- 『ムからウ生れ、ウからム生れると申してあるが、ウム組み組みて、ちから生れるのざぞ。今度の大峠はムにならねば越せんのざぞ。ムがウざぞ。世の元に返すのぞと申してあろが。ムに返れば見えすくのざぞ。風の日もあるぞ』(松の巻 第二十五帖)
- 『ウはムであるぞ。ウとは現実界ぞ。ムとは霊界であるぞ。ウもムも同じであるぞ。ムからウ生れて来ると申してあること、よく心得よ』(秋の巻 第二十五帖)
- 『国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神が治(し)らすのぞと知らしてあろうが、天運 正にめぐり来て、千(智)引の岩戸(言答)はひらかれて、これら地(智)にゆかりのある大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸ひらきの真相であり、誠を知る鍵であるぞ』(至恩之巻 第十帖)
- 『神の申すことは一分一厘違はんのであるぞ、今度言ふことを聞かねば大変な気の毒となるぞ、地(智)の下になって了ふのであるぞ、12345678の世界が12345678910の世となりて、012345678910の世となるのぢゃ、012345678910が【マコト】と申してあろうがな。裏表で二十二ぢゃ、二二の五ぢゃ、二二(ふじ)は晴れたり日本晴れぞ、判りたか』(至恩之巻 第十五帖)
- 1234と5678の2つの四角形の平面(平行)的世界に、9と10が加わって2つの四角錐となり、結合し交わって立立体となる。立立体の玉座に0が加わり、裏表、陰陽和して二二となる。
- 『四つの花が五つに咲くのであるぞ、女松の五葉、男松の五葉、合せて十葉となりなりなりて笑み栄ゆる仕組、十と一(
と
)の実り、二二と輝くぞ、日本晴れ近づいたぞ、あな爽々し、岩戸あけたり』(紫金之巻 第十帖) - 『太陽は十の星を従へるぞ、原子も同様であるぞ。物質が変るのであるぞ、人民の学問や智では判らん事であるから早う改心第一ぞ、二二と申すのは天照大神殿の十種(とくさ)の神宝に
(テン)を入れることであるぞ、これが一厘の仕組。二二となるであろう、これが富士の仕組、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。富士(不二)と鳴門(ナルト)(成答)の仕組いよいよぞ、これが判りたならば、どんな人民も腰をぬかすぞ。一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは完う出来ん、九分九厘で【リンドマリ】ぞ』(至恩之巻 第十六帖) - 2 × 2 × 2 × 3 × 3 × 3 = 216, 2 × 2 × 2 × 2 × 3 × 3 = 144
- 『天に神の座あるように、地には人民の座があるぞ、天にも人民の座があるぞ、地に神の座があるぞ。七の印(しるし)と申してあるぞ、七とはモノのなることぞ、天は三であり、地は四であると今迄は説かせてあったなれど愈々時節到来して、天の数二百十六、地の数一百四十四となりなり、伊邪那岐三となり、伊邪那美二となりなりて、ミトノマグハイして五となるのであるぞ、五は三百六十であるぞ、天の中の元のあり方であるぞ、七の燈台は十の燈台となり出づる時となったぞ、天は数ぞと申してあろう、地はいろは(意露波)であるぞ。判らん者が上に立つこととなるぞ、大グレン目の前、日本のみのことでないぞ、世界中のことであるぞ、今度は三千世界が変るのであるから今迄のようなタテカヘではないのであるぞ』(扶桑之巻 第一帖)
- 天も地も一つ、神も人も一つになり、半霊半物、四次元の高度の、影ないうれしうれしの世となる
- 『神代になりたら天地近うなるぞ、天も地も一つになるのざぞ、今の人民には分るまいなれど、神も人も一つ、上も下も一つとなって自づから区別出来て一列一平上下出来るのぢゃ』(んめの巻(ウメの巻) 第十六帖)
- 『五人あるぞ、中二人、外三人、この仕組 天の仕組。一切と手をつながねばならん。人民のみで世界連邦をつくろうとしても、それは出来ない相談、片輪車と申してあろうが、目に見へぬ世界、目に見へぬ人民との、タテのつながりつけねばならん道理、人民同士の横糸だけでは織物にはならんぞ。天は火ぞ、地は水ぞ、火水組み組みて織りなされたものが、ニシキの御旗ぢゃ、ヒミツの経綸であるぞ』(扶桑之巻 第九帖)
- 『地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのでない、霊界の山川がマコトぞ、地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、マが霊界ぢゃ、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としてゐる、互に入りかわって交はってゐるのぞ、このこと判れば来るべき世界が、半霊半物、四次元の高度の、影ないうれしうれしの世であるから、人民も浄化行せねばならん、大元の道にかへり、歩まねばならん、今迄のような物質でない物質の世となるのであるぞ』(星座之巻 第十二帖)
- 『マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。岩戸ひらきとはこのことであるぞ、少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組』(五葉之巻 第十六帖)
- 『神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、金(きん)は要らぬのざぞ、お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあらうがな、誰でもそれぞれに先の分る様になるのぞ。お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶の様になるのぞ。悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ、ばくち、しょうぎは無く致すぞ。雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきやうに吹かしてやるぞ、神をたたえる声が天地にみちみちて うれしうれしの世となるのざぞ』(天つ巻 第二十帖)
美という点では、大地は驚くべき紫色、金色、また白いところは白墨や雪よりも白く、またこれと同様に、私たちが見てきた色よりもずっと数多くのより美しい他の色で組み合わされている。大地のこの窪地自体も、それは水や空気で満たされているのだが、他の様々な色の多彩さの中で輝いていて、なんらかの色の姿を提供しており、その結果、大地の一つの姿形が一続きの多彩なものとして現れている。
プラトン. パイドン──魂について. 納富信留 訳. 光文社. 2019(2024). p.234
この大地はこのようなあり方をしているので、そこではそれに対応した木や花や果実などの植物が生育している。そしてまた、山や石も同様の類比で、滑らかさや透明度やより美しい色を持っているのである。
- 唯物論が正しければ魔法は実現可能である(余談)
- 唯物論が正しいとした場合、物質は物質の外部から何一つ獲得することはできない
- 環境から学ぶように見えるが、環境も物質のみからできているため、結局のところ自作自演
- 物質は自らに書き込まれた情報を基に様々な事象や構造体を生成しているため、数億光年離れた場所でも全く同じ生成条件ならば同じものが出来上がる
- 魚を構成していた物質が食事によって取り込まれ、今度は人間の一部として振る舞うことが可能なのは、物質の最小単位に魚と人間の情報が書き込まれているから
- 物質の最小単位には、元素からスマートフォン、空飛ぶ箒からウィンガーディアムレヴィオサーに至るまで、すべてが書き込まれている
- 離れた場所に存在する”Aさんを構成する物質の集合”と”Bさんを構成する物質の集合”が、映画などのコンテンツを通して遠隔で同じ情報を共有できるのは、物質が物質の外部から何かを獲得したのではなく、元々書き込まれていた情報を想起した(思い出した)に過ぎない
- 人間が結局のところ物質の集合でしかないなら、物質が実現可能な事象の範囲を超越するような想像力を持つことはできないのではないか
- 人間が魔法を想像できるということは、物質に魔法を実現するポテンシャルが元々備わっているということである
- フランスの小説家 ジュール・ヴェルヌが「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」という名言を残したと(か残してないとか)いわれているが、この名言を唯物論的に言い換えるとすれば「人間という物質の塊が想像できることは、物質の塊が必ず実現できる範囲のみである」となる
- 唯物論が間違っているとしたらこの限りではないが、霊的なものが実際に存在するとしても魔法の実現可能性は十分にある
おわりに
この先に書こうと思っていたことは、今のところはこんな感じです。ほとんど誤字脱字を気にせずに書いたので間違えている部分も結構あるかもしれません。ごめんなさい。
冒頭に書いた通り、哲学やひふみ神示についての考察からはしばらく離れようと思いますが、ぱっと思いついたことがあればこの投稿に追加したり、修正・削除したりしていこうと思います。
なんとなく僕自身、頭でっかちになり過ぎているというか、結局は口先ばかりで、実際に富や地位を得たら歪んだ醜い人間にしかなれないのかもしれません。この先を書くのに相応しい人間かどうか、納得できたらまた書き出します。
『そなたは形や口先ばかりでものを拝んでゐるが、心と行と口と三つそろはねばならん。三つ揃ふて拝むならば、どんなものでも与へられるのぢゃ。拝む所へ ものは集まってくる。神も集まってくる。足らぬものなくなるぞ。余ることなくなって、満たされるのが まことの富ぢゃ。清富ぢゃ』(月光の巻 第六十帖)
ひふみ神示 記事一覧
- 『ひふみ神示』を読んで、結構ビックリしたので紹介します – ひふみ神示 解釈1
- 『五つの岩戸』の物語から読み取れる僕たちの課題 – ひふみ神示 解釈2
- 2039年、一旦世界の終わり『ツキの世』。2044年、再び世界の始まり『ミロクの世』 – ひふみ神示 解釈3
- 『立立体』とは何か – ひふみ神示 解釈4
- ひふみ神示が教えてくれる?「最後の審判」と「ハルマゲドン」の正体 − ひふみ神示 解釈5
- エヴァンゲリオン × ひふみ神示。7つの繋がり – ひふみ神示 解釈 番外篇
- シン・イロハウタ – ひふみ神示 解釈 番外篇
- 霊魂の構造と二通りの竜神 – ひふみ神示 解釈6の1
- 霊魂の構造と二通りの竜神 – ひふみ神示 解釈6の2
- 霊魂の構造と二通りの竜神 – ひふみ神示 解釈6の3
- 幸福の構造と喜びの子 – ひふみ神示 解釈7
- 禁断の果実と善悪なき世 – ひふみ神示 解釈8の1
- 今ここ -> この先について – ひふみ神示 番外編
