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シン・イロハウタ – ひふみ神示 解釈 番外篇

約3年半ぶりの投稿(再開しました、を除いて)です。かなり間が空いてしまいましたが、またのんびり始めたいと思います。ちなみにですが、その間にnoteを書き始めました。こっちも投稿数は少ないですが…。今後は、noteに書いたものもこっちに転載して、このブログをアーカイブのようなものにもしていこうかなと考えています。

余談でした…。

それでは気を取り直して、今回はひふみ神示に登場する「いろは歌(いろは祝詞)」の解釈についてです。

シン・エヴァンゲリオン の公開日が今年の6月27日に決まり、去年の12月27日にグッズ付きムビチケカードの予約受付が開始されましたね。公開が待ち遠しいです。そして、今日3月27日は予約受付開始から公開までのちょうど中間の27日で、TVシリーズの最終回の日でもあって、僕の誕生日(関係ないけど…笑)でもある特別な日です。勝手に運命的なものを感じてしまったので、今回も調子に乗って、こんなタイトルにしてしまいました。

ひふみ神示を知らない方は、「 ひふみ神示 解釈1 」を読んで頂けると、少し分かりやすいと思います。全文は「 ひふみ神示データー 」というサイトに載っています。また、このサイトを参考にさせて頂きながら、「スマートフォンの表示にも対応したサイト」を作成したので、こちらもぜひ覗いてみてください。

ひふみ神示の中の「いろは歌」

「いろは歌」は、実はひふみ神示の中にも登場します。

『いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん。』(夜明けの巻 第十三帖)

ですが、このように音の区切り方は一般的に解釈されているいろは歌とは違っています。

一般的ないろは歌は、こんな形で七と五に区切られています。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

Wikipediaより

ちなみに、解釈はこうあります。

中世から現代にいたるまで各種の解釈がなされてきたが、多くは「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい」などと、仏教的な無常を歌った歌と解釈してきた。

仏教的な無常を歌った歌という解釈が一般的なようです。

一方、ひふみ神示では三、五、七に区切られています。また、「いろは歌」ではなく「いろは祝詞」(黒鉄の巻 第三十九帖より)となっていました。

いろは にほへとち りぬるをわかよ
たれそ つねならむ うゐのおくやま
けふこ えてあさき ゆめみしゑひもせすん。

『一二三祝詞(ひふみのりと)するときは、神の息に合はして宣(の)れよ、神の息に合はすのは三五七、三五七に切って宣れよ。しまひだけ節(ふし)長くよめよ、それを三たびよみて宣りあげよ』(下つ巻 第七帖)

この三五七の読み方は、こちらの記述にある一二三祝詞と同様で、神の息に合わせることを目的にしているのだと思います。

ですが、僕はこの区切り方にも何か意味を見出せるのではないかと考え、こんな意味で解釈をしました。

色八 二方へと散 離ぬるを別よ
誰そ 常ならむ 有為の奥山
仮有古 得て朝来 夢見し永(栄)も瀬寸

色は八方、二方へと散り、離れ離れに別れてしまったのは、誰だったろうか。だが、それも永遠ではないだろう。終わりのある奥山の、その仮の姿は過ぎ去り、朝を迎えれば、夢に見たような永遠や繁栄も歩いて渡れるほどすぐそばにある。

これは伊邪那岐命と伊邪那美命の両神が離れ離れになってしまったことと、両神が仲直りした後に訪れる世界のことを詠ったものではないかと解釈しました。

『色はにほへど散るものぞ、世の乱れ神界のいろからであるぞ、気つけておくぞ』(ウミの巻 第九帖)

『神界の乱れ、イロからぢゃと申してあらう。男女関係が世の乱れの因であるぞ。お互に魂のやりとりであるぞ』(黄金の巻 第八十五帖)

これらの記述から、「色」とは男女の関係という意味で捉えました。

『千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ。これが日本の国の、又地上の別名であるぞ、数をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが、その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七乃至八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れてそれぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ』(至恩之巻 第九帖)

冒頭の部分「色八 二方へと散(色は八方、二方へと散り、)」は、上記の文末にある『或る時期迄は八方と九、十の二方に分れて…』というのを参考にしました。

『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ』(至恩之巻 第八帖)

「離ぬるを別よ 誰そ(離れ離れに別れてしまったのは、誰だったろうか。)」は、ナギ・ナミの両神が別々になってしまったことと、それが原因で世が乱れてしまったということをあらためて確認しているイメージです。「誰のせいで」と責めるのではなく、「根本の原因はどこにあるのか思い出してみよう」と問いかけているような感じです。

『夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな』(碧玉之巻 第十帖)

「常ならむ(だが、それも永遠ではないだろう。)」は文字通り、別々になった状態は永遠には続かないという意味で、「有為の奥山 仮有古(終わりのある奥山の、その仮の姿は過ぎ去り、)」は、ナギ・ナミ両神の喧嘩別れ(因縁)から生じた奥山の姿は、本来の姿ではなく仮のものであり、夫婦神の仲直りと倶(とも)に過去のものになるという意味です。

有為という言葉には、因縁から生じた永続しない物事や現象という意味があり、仮有という言葉には、因縁から生じた本質的な実体をもたない仮の存在という意味があります。

『同じ愛、同じ想念のものは自ら集まって結ばれる。天国のカタチ、ウツシが奥山ぞ。ミソもクソも一緒にして御座るぞ』(黒鉄の巻 第八帖)

『もう待たれんから判りた人民一日も早く奥山に参りて神の御用結構につとめあげて下されよ。世界中を天国にいたす御用の御役、つとめ上げて下されよ』(黄金の巻 第七十四帖)

『現実の事のみで処してはならん、常に永遠の立場に立って処理せよと申してあろうがな、生きることは死に向って進むこと、マコトに生きる大道に目ざめてくれよ、神示を始めから読めば何事もありやかぞ。奥山はあってはならん無くてはならん存在であるぞ。善人の住むところ、悪人の休む処と申してあろう、奥山は神、幽、現の三界と通ずるところ。八尋殿の左と右に宮が建つ、奥にも一つ』(紫金之巻 第十四帖)

「奥山」については何のことなのか、あるいは何処のことなのか詳しくは分かりませんが、上記のような記述から、神様だったり、人だったりが集まる場所であって、三界(神界、幽界、現界)に通ずるような場所と解釈できます。

『足許から鳥が立つぞ、十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、用意なされよ、上下にグレンと引繰り返るぞ。上の者下に、落ちぶれた民 上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、加実の申すこと千に一つもちがはんぞ』(上つ巻 第二十帖)

『そなたはお先まっくらぢゃと申してゐるが、夜明けの前はくらいものぞ。暗いやみの後に夜明けがくること判ってゐるであろうが、神はすべてを見通しであるから、すぐのおかげは小さいぞ。利子つけた大きなおかげを結構に頂いて下されよ』(月光の巻 第三十七帖)

「得て朝来(朝を迎えれば、)」は、ひふみ神示によく登場する「夜明け」という言葉から考えました。「夜明けを手に入れる」という意味にしたかったのですが、そうなるでしょうか?

朝来」を調べてみても、兵庫県の朝来市(あさご)だったり朝来(ちょうらい)という読み方で、「あさき」という読み方は出てこなかったので、新しい読み方になってしまうと思います。

『世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、臣民では見当取れん永遠(とことは)につづく神世に致すのざから、素直に神の申すこときくが一等ざぞ』(天つ巻 第十六帖)

『人の苦労あてにして我が進んで苦労せん様な人民では神の気感(きかん)に適はんから、今度は苦労のかたまりの花咲くのざ、苦の花咲くのざぞ、二二に 九(コ)の花咲耶姫の神 祀りて呉れと申してあろがな、永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ』(アメの巻 第十一帖)

『みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ、手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなるのぞ、み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光であるのざぞ』(地(九二)つ巻 第十一帖)

「夢見し永(栄)も瀬寸(夢に見たような永遠や繁栄も歩いて渡れるほどすぐそばにある。)」は、こちらもひふみ神示によく登場する「ミロクの世」という言葉から考えました。本来の奥山の姿に戻ることで、永遠に弥栄していくミロクの世がもうすぐ訪れるよ。という意味です。

瀬寸は完全に造語です。「少し苦労するけど、歩いて行けるくらいすぐそば」という意味の言葉です。

『物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ。よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。ふところ手でいては出来ん。手出せ、足出せよ』(春の巻 第九帖)

『国々所々に、神人鳴り動く、道は世にひらき極む、日月地 更に交わり結び、その神々ひらき弥栄え、大地固成、まことの神と現はれ、正し、三神は世に出づ、ひふみと鳴り成るぞ。正しくひらけ弥栄へて更につきづ、鳴る道に成り、交わる。永遠の世光ることは永遠の大道、息吹き大地に充ち満つ道。展きてつきず、極まり成る神の道。苦しむ道をひらき、日月地に苦しむ喜び出で、神の国むつび、悉く歓喜弥栄ゆ。七月十日、あめのひつくのかみ。』(松の巻 第二十三帖)

おわりに

今回のこの解釈自体は一年前くらいにしていて、ツイッターでつぶやいていました。

ただ、この時は一般的ないろは歌と同じように、最後を「せず」で切っていました。意味としては「もはや永遠や繁栄を夢に見る必要もない」としたかったですが、ひふみ神示の記述を改めて確認したら「せすん。」となっていたので、変えています。

記事を書きながら「おこがましいことをしているな」と、そんな感情も湧いてきたのですが、時代によって言葉の意味も変わっていったり、いろは歌も江戸時代?くらいには「 とがなくてしす 」と解釈されていたりして、古典の先生に怒られてしまいそうだなとも思いましたが、時代を経て変わったその時々の言葉や常識で解釈するのもまた面白いのかなと思ったので、やってしまいました。

言い訳でした。

以前、ひふみ神示とエヴァンゲリオンが関係してるんじゃないかってことを書いた記事もあるので、こちらも興味が湧いたときに読んでみてください。

エヴァンゲリオン × ひふみ神示。7つの繋がり – ひふみ神示 解釈 番外篇

ひふみ神示をまだ読んだことがない人は、ぜひ一度読んでみてください。

https://hifumi.tomosu.link/

ひふみ神示 記事一覧

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ひふみ神示が教えてくれる?「最後の審判」と「ハルマゲドン」の正体 − ひふみ神示 解釈5
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