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幸福の構造と喜びの子 – ひふみ神示 解釈7

解釈6」の続きです。前回まで”霊魂の構造”について書いてきました。今回はそこから導き出される”幸福の構造”と、ひふみ神示にある「喜びの子」や「罪の子」について考察します。今回も少しずつ読み進めながら最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。

『神について御座れよ。理屈申さず、ついて御座れよ。地獄ないと申してあろう。人は神の喜びの子と申してあらう。人の本性は神であるぞ。神なればこそ天国へ自づから行くのぢゃ。住むのぢゃ』(秋の巻 第十二帖)

ひふみ神示を知らない方は、「 ひふみ神示 解釈1 」を読んでいただけると、少し分かりやすいと思います。全文は「 ひふみ神示データー 」というサイトに載っています。また、このサイトを参考にさせていただきながら、「スマートフォンの表示にも対応したサイト」を作成したので、こちらもぜひ覗いてみてください。

霊魂の構造のおさらい

前回まで考察してきた”霊魂の構造”をざっくりとおさらいします。

一つの霊魂は上の図のような構造で、〈理知的部分 = 東木 = 奇魂〉と〈欲望的部分 = 西金 = 幸魂〉からなる〈徳の軸(X軸)〉と、〈気概の部分 = 南火 = 荒魂〉と〈寛容の部分 = 北水 = 和魂〉からなる〈正義の軸(Y軸)〉とが交差しています。そして、その中心点(原点)に〈魂の玉座(神の道) = 中土 = 直霊(直日)〉があり、魂の各部分が”超過”や”不足”に陥らないように”中庸”を保ち、さらに各軸の関係が歪みのない”中道”を保つように制御しています。

  • 理知的部分 – 理性や知性など物事を分別し理解する部分。(中庸)自省・知慮など…(超過)頑固・狡猾など…(不足)軽薄・愚昧など…
  • 欲望的部分 – 生理的欲求や利得欲など欲望全般を生み出す部分。(中庸)節制・希望など…(超過)放埒・強欲など…(不足)無欲・鬱屈など…
  • 気概の部分 – 意見を伝えたり拒否したりなどの能動的な部分。(中庸)勇敢・忍耐など…(超過)無謀・憤怒など…(不足)臆病・虚弱など…
  • 寛容の部分 – 意見を聞いたり承諾したりなどの受動的な部分。(中庸)傾聴・許容など…(超過)放任・隷属など…(不足)無視・断絶など…
  • 魂の玉座(神の道) – 魂の各部分が”超過”や”不足”に陥らないように”中庸”を保ち、さらに各軸の関係が歪みのない”中道”を保つように制御する部分。神に繋がる道。
  • 「〈徳〉とは、霊魂に備わった特性が充分に発揮された状態である」
  • 「〈正義〉とは、様々な関係における均衡を保つための〈計量の技術〉を有した状態である」
  • 「〈愛〉とは、二つ以上の霊魂が結合した状態である」

分子同士、人体の内臓間、男女、国家間など、様々な関係が生じ得るのは霊魂同士が〈愛〉によって結合するためだと考えます。このように霊魂同士の関係が生じるとき、〈徳の軸〉と〈正義の軸〉に〈愛の軸〉が加わり、下の図のように立体的になります。

人体が微小な細胞の結合によってできているにも関わらず、その全体像を捉えて一個人として認識できるように、霊魂と霊魂とが結合したものは、別の一つの霊魂持った構造体として認識できます。

『愈々が来たぞ、いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ、クニトコタチがクニヒロタチとなるぞ、クニは黄であるぞ、真中であるぞ、天は青であるぞ、黄と青と和合してみどり、赤と和して橙(だいだい)となり、青と赤と和して紫となる、天上天下地下となり六色となり六変となり六合(クニ)となるのぢゃ、更に七となり八となり白黒を加へて十となる仕組、色霊(イロタマ)結構致しくれよ』(紫金之巻 第十一帖)

幸福とは何か

「〈幸福〉とは、魂の各部分が過不足のない”中庸”へ向かい続け、様々な段階の霊魂同士の関係において〈徳〉〈正義〉〈愛〉それぞれの軸で”中道”に至るための活動である」と考えています。

〈徳〉においては、老子のいうような「いつもつまらない欲と知識をもたない状態」となり、その人自身にとっての”心地よい居場所”を見つけ、他者と補い合いながら、無理のない範囲において「”無為自然”に霊魂に備わった特性が充分に発揮された状態」で、「自他への”感謝”と”肯定感”」を持って生きることができます。

〈正義〉においては、ソクラテスのいうような「ぼくたちの生活の安全を保障してくれるもの」となり、闘争や競争などが「均衡を保つための〈計量の技術〉」によって逸脱せずに秩序を保ち、戦争や必要以上の格差がなくなり、生存や将来への不安などから生じる”余計な心配”や”余計な手出し”の必要がなく、「自他への”信頼”と”安心感”」を持って生きることができます。

〈愛〉においては、ラッセルのいうような「一つの幸福を共有する結合体だと感じる愛情」となり、”自己中心”や”自己犠牲”ではなく、”自分や身内だけでなく、皆が良ければいい”といった風に「調和的に様々な霊魂が結合した状態」で、「自他への”尊重”と”一体感”」を持って生きることができます。

これによって、「解釈6の3」で述べたように、人の歩みが「神の道」と一体となり”神人”となった「惟神の道」に近づいていくと解釈しています。そして、その道を歩んでいく活動そのものが〈幸福〉であると考えています。

『常に、動き栄えゆく、大和のを中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心をとする立体的うごきの中に呼吸しなければならない。それが正しき惟神の歓喜である。惟神の歓喜は総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄する。故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである』(二日んの巻(ジシンの巻) 第九帖)

おそらくですが、マズローの欲求段階説多様なウェルビーイングの指標は、この、〈徳〉における「自他への”感謝”と”肯定感”」、〈正義〉における「自他への”信頼”と”安心感”」、〈愛〉における「自他への”尊重”と”一体感”」で抽象化できるのではないかと考えています。〈徳〉〈正義〉〈愛〉は密接に関わっているため、はっきりとは分けられませんが、大まかに分類してみました。

  • 主に〈徳〉に関連 – 自己実現の欲求、生理的欲求、感動、感謝、達成感、自分らしさ、やりがいなど
  • 主に〈正義〉に関連 – 安全の欲求、仕事への納得感、収支のバランスと経済的安全性、心理的安全性、チャレンジ精神など
  • 主に〈愛〉に関連 – 承認(尊重)の欲求、社会的欲求 / 所属と愛の欲求、心と体の健康、つながり、思いやり、没頭など

不幸とは何か

〈幸福〉の反対に、「〈不幸〉とは、魂の各部分が”超過”あるいは”不足”へ向かい続け、様々な段階の霊魂同士の関係において〈徳〉〈正義〉〈愛〉それぞれの軸で”外道”に陥るための活動である」と考えています。

〈徳〉においては、「いつもつまらない欲や知識でいっぱいの状態」や「無理に願望や興味を抑圧した状態」となることで”自分らしさ”を見失い、日常や当然のことに対する”感動”や”感謝”を忘れることで”虚無”に向かい、「”不自然”に霊魂に備わった特性が歪んだ状態」となり、「自他への”無感”と”否定感”」を持って生きることになります。

〈正義〉においては、「ぼくたちの生活の安全を脅かすもの」となり、闘争や競争などが「自らを重く見せかけるための〈ペテンの技術〉」によって逸脱することで混沌とし、その歪から戦争や極端な格差が生じ、人々は生存や将来のために”余計な心配”や”余計な手出し”が必要となり、「自他への”不信”と”不安感”」を持って生きることになります。

〈愛〉においては、「偽りの幸福を占有するために衝突する分裂体」となり、”自己中心”と”自己犠牲”の歪みによって「不調和的に様々な霊魂が分裂した状態」で、「自他への”軽蔑”と”疎外感”」を持って生きることになります。

その特徴として、〈徳〉においては高慢・厚顔・侮辱・嫉妬・卑下など”否定”を伴ったもの。〈正義〉においては欺瞞・虚偽・脅迫・疑念・恐怖など”不安”を伴ったもの。〈愛〉においては侮蔑・排斥・無視・憎悪・怨恨など”疎外”を伴ったものとなります。

幸福は優れた才能のある人のみのものか

アリストテレスは、〈幸福〉とは「卓越性に即しての魂の或る活動である」と述べました。

幸福とは、すなわち、卓越性(アレテー)に即しての魂の或る活動である

アリストテレス. ニコマコス倫理学(上). 高田三郎 訳. 岩波書店. 1971(2022). p.50

「卓越性」という言葉の意味として”他よりも優れている”や”群を抜いている”があります。「卓越性」はギリシャ語の「アレテー(徳)」を訳したものです。たしかに、ある人の〈徳〉が”他よりも優れている”場合もありますが、この意味のみを正しいとすれば、そういった”卓越”した才能を持っていない大多数の人々は、〈幸福〉になれないことになってしまいます。また、才能があったとしても、全盛期を過ぎ引退した後など、その人にとって最も”卓越”した期間を過ぎた人は、もう〈幸福〉にはなれないのでしょうか。

アリストテレスは、「政治の究極目的」=「最高善」は〈幸福〉であるとも述べています。”政治”に関連するということは、〈幸福〉は社会全体に関わるものになります。”他者との比較”によって、一部の者だけが〈幸福〉になれるのだとすれば、これと矛盾します。

“他人と比べる”や”過去の栄光に縋る”ような心情は、〈不幸〉に近いもののように感じます。それよりも、”成長を楽しむ”や”引退して指導者を目指す”といった活動の方が、〈幸福〉に近いのではないでしょうか。

そのため、「アレテー(徳)」という言葉は、”他よりも優れている”といった意味で捉えるのではなく、”霊魂に備わった特性が充分に発揮された状態”といった意味で捉え、〈幸福〉とは「その人のそのときの〈徳〉に即しての魂(霊魂)の或る活動である」と考えるのが適切かと思われます。

家族関係における幸福

夫婦の〈愛〉は、〈気概の部分〉による一方的な押し付けや強い衝突、〈寛容の部分〉による一方的な受け入れやすれ違いではなく、互いに向き合い続けながら双方の意見を擦り合わせることでより強く結合し、それがまた〈正義〉において”信頼”となり”安心感”に繋がるのではないかと思います。

親子関係においても、親が思うように子どもをコントロールしようとしたり、逆に子どもの言いなりになるのではなく、互いに意見を交換することが重要だと考えます。

頭ごなしに強く叱りつけるのみや、その反対に、全てを許容し甘やかし過ぎてしまうことは、怒られまいと虚をついたり、人をからかうように欺いたり、わがままを暴力的に押し付けようとするなどの、歪んだ行動に子どもを導いてしまいます。

ときには叱ることも必要ですが、できるだけ冷静になって、親や一人の人間としての立場からの意見を根気よく伝えることが、互いの”信頼”と”安心感”に繋がるのではないかと思います。

『親子、夫婦、兄弟姉妹と生れても逆縁あるぞ。カタキ同士 結ばれることあるぞ。それは神の大き恵みぞ。それに打ちかって、新しき生命うみ出してつかへまつれ。体験ないところに宗教はない』(春の巻 第二十八帖)

また、精神的に不安定な子や日常生活への障害を抱える子など、少し”不安”を感じる子に対しても、できる範囲で子どもを”信頼”し、何かしらの役割を任せたりすることは、”自己肯定感”によって〈徳〉を育むことにも役立つと思われます。それがまた親子ともに”一体感”や”安心感”にも繋がっていき、〈幸福〉的な好循環を生み出していくと考えます。

ですが、その役割は、その子のそのときの〈徳〉に即したものである必要があります。思うようなものでなかったとしても、親の望みを無理に押し付けたり、”軽蔑”して”疎外感”を抱かせるようなことをするべきではありません。どんな場合にもその子自身を”受容”し、その存在を”尊重”することで、家族全体が”肯定感”と”安心感”と”一体感”に満たされます。

『見へる幸福には限りがあり、見へぬ幸福は永遠であるぞ。理(ミチ)にいそしめ。理(ミチ)にとけ入れよ。モノは無くなるぞ。霊は永遠に弥栄えるぞ。毎日々々掃除してもホコリはたまる。絶えず心の掃除よいか。洗濯よいか。目に見へず、上、下、左、右、前、後から何となくせまってくるものをサニワせよ。サニワして受けいれねばならん。自分の魂をはぐくみ、生長さしてくれる大切なものは目に見へんところから流れてくるぞ。和せよ。調和せよ。調和とは、上から、より清い所から流れて来るものに従ふことぞ。いよいよが一四一四となるぞ。雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒の神、大地震の神』(春の巻 第五十四帖)

喜びの子と罪の子

ひふみ神示には、「罪の子」「喜びの子」「神の子」といった言葉がでてきます。これはキリスト教的な考え方とも少し繋がるものではないでしょうか。

『人間は罪の子でないぞ。喜びの子ぞ。神の子ぞ。神の子なればこそ悔い改めねばならんぞ。真なき愛の道、悲しみの喜びからも生れることあるぞ。それは罪の子と申すのであるぞ』(黒鉄の巻 第十一帖)

「喜びの子」とは、先に述べた〈幸福〉な人々のことだと考えています。これは次の帖にある「光」や「表の喜び」と同じ意味にあり、「光に向かふ」は「直霊(直日)に向かう」とも換言できると解釈しています。

『光は神から人民に与へられてゐる。光に向かふから照らされる。光は、真、善、美、愛となり、又そのうらの、疑、悪、醜、憎となり現はれるぞ。御用の善となり、御用の悪となる』(春の巻 第四十一帖)

「真(信)」と「偽(疑)」は、真偽の判定、裁判や商取引に伴う疑義を連想するため、〈正義〉に関連していると思われます。「美」と「醜」は、その人の特性が充分に発揮されている場合には美しく輝いて見えたり、恥じらいなく分不相応に貪る姿は醜く見えたりするため、〈徳〉に関連していると思われます。「愛」と「憎」は、そのまま〈愛〉に関連していると思われます。

「喜びの子」は”中道”に向かうことによって、〈徳〉は 「美」として、〈正義〉は「真」や「信」として、〈愛〉とともに現れます。

「罪の子」は”外道”に向かうことによって、〈徳〉は「醜」として、〈正義〉は「偽」や「疑」として、〈憎〉とともに現れます。

『表の喜びが、愛、真、善、美となり現れ、裏の喜びからは、、憎、偽、悪、醜が現れるのぢゃ。喜びが神ぢゃと申して裏の喜びではならんぞ。今の人民の喜びと申すのは裏の喜びであるぞ。悲しみを喜びととり違へているぞ』(春の巻 第四帖)

ですが、「喜びの子」であっても常に「表の喜び」のみを選べるわけではなく、「裏の喜び」との間で揺れ動き、ときには”高慢”や”虚偽”によって「醜」や「偽」となり、”自己否定”や”露呈の不安”を感じながらも、”中庸”や”中道”を目指し「悔い改める」ところに「神の子」としての姿があるのではないでしょうか。

人間の心が、他者を顧みず富を占有したり、相手を蔑んだり、虐げたり、敵を討ち滅ぼしたり、といった行為にも一種の喜びを感じてしまうことは事実です。それは僕の中にも確かにあるものです。けれども、他者の悲しみから相対的に得られるような喜びは、ひふみ神示にある「裏の喜び」や「悲しみの喜び」であり、「悔い改める」ことなくこれらの喜びのみを求め続けることこそが「罪の子」なのではないかと考えます。

これまでの歴史の中で「人間は罪の子」であるという言葉が言い訳となり、愚かな行為を後悔して反省したり、改めることができなくなっていた人々も多くいたのではないでしょうか。これからの人類は、「人間は罪の子ではなく、喜びの子であり神の子である」という心を持って、根本の大神様と本質的に一体であることを意識しながら生きていくことが必要だと感じています。

『天地(あめつち)の大祓ひと呼応して国の潔斎、人の潔斎、祓ひ清めせねばならんのざぞ、与へられた使命を果たすには潔斎せねばならんのざぞ。かへりみる、はぢる、くゆる、おそる、さとる、の五つのはたらきを正しく発揮して、みそぎ祓を実践せねばならんのであるぞ』(ア火ハの巻(アホバの巻) 第三帖)

『理(ミチ)にいそしめ。理(ミチ)ゆくところ喜びあるぞ。喜びあるから病気も治るのぢゃ。金も出てくるのぢゃ。おかげあるのぢゃ。喜び神ぢゃ。タテには神と神界と和し、ヨコには人と環境と大和して行くところにこそ、生きの生命のウレシウレシあるのであるぞ』(春の巻 第五十六帖)

必要な苦しみと必要のない苦しみ

ひふみ神示には「悪のとりことなって苦しむが見へてゐるから、苦も結構なれど いらん苦はいらんぞ」とあります。

『悪はないのであるが、無い悪を人民の心から生むのざぞ、悪のとりことなって苦しむが見へてゐるから、苦も結構なれど いらん苦はいらんぞ、神示よく読んで苦を楽とせよ、楽は喜びぞ、苦のハタラキが楽ぞ、楽は喜びぞ、光ぞ、神人共のまつりぞ、楽で岩戸開けるぞ、苦しんで開く岩戸は誠の岩戸でないぞ』(|三の巻(ウミの巻) 第四帖)

『その人によってふさわしい行がある。誰でも同じでない。一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。身につかんもの、身につかん行は、いくらしても何もならん。いらん苦労はいらんと申してあろう』(春の巻 第五十帖)

喜びを得るためには、ある程度の努力が必要であり、努力には苦しみもあります。例えば、労働、運動、学習には苦しみを伴う部分もありますが、これらのお陰で生活や健康を維持でき、人間としての喜びを享受することができます。

ですが、虚栄心などからの”超過”した〈理知的部分〉による「いらん苦(必要のない苦労)」は、〈徳〉の歪みを生み、その反動によって〈欲望的部分〉の”超過”を引き起こし、「裏の喜び」や「悲しみの喜び」とともに他者との衝突や奪い合いなどを激化させます。これが「悪のとりこ」の意味であると考えます。

自己の特性を活かし、自他双方にとっての”楽”と”喜び”を生み出すような、〈徳〉に即した苦しみは必要です。しかし、互いに首絞め合うように、苦しみからさらなる苦しみを生み出す、歪んだ〈徳〉からの苦しみは必要ありません。

『使命がいのち。上から、神から命ぜられたことがいのちぞ。使命はつくられた時に与えられる。使命なくてものは生れんぞ。自分の使命は内にききつつ外にきけよ。使命果たすがよろこびぞ。使命果たすには生命がけでなくてはならん。生命ぢゃからのう。努力した上にもせなならんぞ。努力には苦もあるぞ。苦のない努力ないぞ。右を動かせば左もうごくぞ。果たせば苦は楽。果たさねば楽も苦。重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのぢゃ。神が主であるぞ』(春の巻 第十八帖)

清くして富む時代

他者を顧みず富を占有することは、「裏の喜び」や「悲しみの喜び」であると述べましたが、ひふみ神示には「金欲しい者には金もうけさしてやれよ。欲しいもの与へてやれよ」ともあります。おそらくこれは、お金を儲けても、それによって社会に歪みが生じることがなく、自他ともに〈不幸〉とならないのであれば問題ないということだと思います。

『金欲しい者には金もうけさしてやれよ。欲しいもの与へてやれよ。人間心、神心、逆様ぢゃ。与へることは戴くこと。まだ判らんか。皆何も天国に行くやうになってゐるではないか。この世でも天国、あの世でも天国、目出度いなあ』(黄金の巻 第二十六帖)

商取引などのお金に関するものは、主に〈正義〉に関連しますが、現行の経済・金融システムは何度も危機を迎えており、また、日本などの先進国におけるワーキングプアの存在からも〈計量の技術〉の不完全さが見受けられ、”信頼”や”信用”に値するものではないことが分かります。こういった”不信”が”不安感”を生み、〈不幸〉の原因となります。

経済競争を起因とした環境破壊や戦争、経済格差による社会の分断、金銭を要求する強盗や詐欺などの犯罪、金銭の貸借による友人との心理的疎遠、相続問題による血縁の分離、借金苦による家族の離別や自殺、経済的な困窮による餓死、生活苦による性の売買、臓器売買、人身売買、等々。現行の経済・金融システムは、自然環境、社会、家族、人体、精神などに多様な問題を引き起こす主要因となっています。

金融については、アリストテレスも次のように批判しています。

ましてや金融術は、貨幣が導入された本来の目的に背き、貨幣そのものから財貨を獲得するため、憎まれることには最大の道理がある。というのも、もともと貨幣は交換によって別の物資に変えるという目的で発生したにもかかわらず、金融の利子は貨幣そのものを増殖するからであり、ここから「貨幣の子ども」を意味する「利子」という名称も生じたのである。すなわち、生みの親に似た姿で生まれたものが子どもにほかならず、利子は貨幣から生まれた貨幣なのである。したがって、さまざまな財貨の獲得術の中でも、金融術が最も自然に反する。

アリストテレス. 政治学(上). 三浦洋 訳. 光文社. 2023. pp.90-91

金融は負債によるバランスシートの歪み(不等式)から始まり、利子を伴った貸借が繰り返されるごとに、その歪みの振り幅が国内・国際金融全体で増幅していくと考えられます。そして、その歪みの蓄積は通常の経済活動では解消できず、破産や破綻、最悪の場合は戦争といった破滅的な結果でしか解消できないように思われます。

また、バランスの歪みから始まるということは、どこかがプラスの立場にいるとき、どこかがマイナスの立場にいるという関係になります。さらに、この関係はほとんどの場合において、「解釈6の2」で述べたような「プラスとマイナスを行ったり来たりする」ものではなく、一方が”堪えている”状態で常にマイナスにあり、もう一方は”有り余る”状態で常にプラスにあるような「悪の和合」的な関係なので、この仕組みが基盤にある限りは全人類的な〈幸福〉は実現できないと推察されます。

そのため、金融システムの基盤の上に経済システムが乗る仕組みではなく、関係を反対にして、人を生かすための経済システムの基盤の上に、逸脱しない範囲でゲーム(互いに自らの方に傾いた不等式を目指す)要素としての金融システムが乗る仕組みが望ましいと思われます。

ひふみ神示にある「与へる政治」のように、お金がなくても誰もが生きていけるような経済システムが基盤にあれば、金融システムによるお金儲けは、人生のゲーム的なオプションの一つになり、労働と競技を切り離して認識できるようになるため、様々な問題を引き起こす主要因ではなくなるのかもしれません。

『神の政治、神国の政治は与へる政治とくどう申してあろがな。今の遣り方では愈々苦しくなるばかりぞ。早よう気付かぬと気の毒出来て来るぞ。金いらぬと申してあろが。やり方教へてやりたいなれど、それでは臣民に手柄無いから此の神示よく読みてくれといふてあるのぞ』(日月の巻 第十六帖)

『乗るものも只にせよ、田からも家からも税金とるでないぞ、年貢とりたてるでないぞ、何もかも只ぢゃ、日の光見よ、と申してあらうが、黄金(きん)はいらんと申してあろが、暮しむきのものも只でとらせよ、只で与へる方法あるでないか、働かん者食ふべからずと申す事 理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与へてとらせよ、与へる方法あるでないか、働かんでも食べさせてやれよ、何もかも与へぱなしぢゃ、其処に神の政治始まるのぢゃぞ、神の経済あるのぢゃ』(一火リの巻(ヒカリの巻) 第三帖)

ちなみに、「経済」の由来は”世の中を治めて民を救う”ことを意味する「経世済民」で、「economy(経済)」は”家政”や”家計管理”を意味するギリシャ語の「オイコノミア」を語源としているそうです。また、”金融”は「お金を融通する」に由来していて、「融通」には”滞りなく通じる”といった意味があります。そのため、経済・金融システムの本来の役割は”国家を治めて民を救うために、お金を滞りなくあまねく浸透するように管理する”といったものになるのではないでしょうか。そう考えると、現行のシステムは言葉の意味に追いついていないように感じます。

「finance(金融)」は元々、古フランス語で”終わり”や”支払い”といった意味があるそうですが、金融には住宅ローンなど支払いが”終わらない”イメージや、国家の財政破綻などの”終わり”もイメージできてしまうため、この言葉にはブラックジョーク的な皮肉も込められているのかもしれません。もしかしたら、金融術がもたらす終末論的な”終わり”のイメージもあるのでしょうか。

『金で世を治めて、金で潰して、地固めして みろくの世と致すのぢゃ』(黄金の巻 第五十九帖)

話を戻します。

ひふみ神示にある「むさぶる政治」のように、経済的に困窮している国民を蔑ろにして、”はたらき”に見合わない多額の報酬を分不相応に得ている政治家は、”醜く”見えるものです。一方で、同じく多額の報酬を得るにしても、それまでその人の〈徳〉に即して正当に努力してきた人が結果を出し、それに見合った多額の報酬を分相応に得るような場合には、”醜く”は見えません。

『今の政治はむさぶる政治ぞ、神のやり方は与へぱなしざぞ、(ウズ)ぞ、マコトぞ。今のやり方では世界は治まらんぞ、道理ぢゃなあ。天にはいくらでも与えるものあるぞ、地にはいくらでも、どうにでもなる、人民に与へるものあるのざぞ、おしみなく、くまなく与えて取らせよ、与へると弥栄へるぞ、弥栄になって元に戻るのざ、国は富んで来るぞ、神徳 満ち満つのぢゃ、この道理判るであらうがな』(一火リの巻(ヒカリの巻) 第三帖)

これからは、”厚顔”や”欺瞞”などによって歪んだ霊魂の人が〈不幸〉とともに”醜く”お金を儲ける時代ではなく、自他への”感謝”や”信頼”に満たされた人が〈幸福〉とともに「清くして富む」時代になっていくのではないでしょうか。

『今迄の信仰は何処かにさびしき、もの足りなさかあったであらうが。片親がなかったからぞ。天に仕へるか、地に仕へるかであったからぞ。この道はアメツチの道ざと知らしてあらうがな。清くして富むのがまことぢゃ。地も富まねばならんのぢゃと申してあらうが。これから先は金もうけばかりも出来ん。今迄のやうな神信心ばかりも出来ん。神の理(ミチ)を進むものは嫌でも金がたまるのぢゃ。金がたまらねば深く省みよ。理に外れて御座るぞ。人は罪の子でない、喜びの子ぞ』(黒鉄の巻 第三十六帖)

赦し(Forgive)と許し(Allow)について

「罪の子」について述べましたが、”赦し”とは「罪の子」が「悔い改める」ことで「喜びの子」になることと考えます。ですが、人間には他者を”許す”ことはできても、その罪を”赦す”ことはできないとも考えています。なぜそう考えるのかというと、誰が罪を赦せばいいのかが判らないからです。

被害者が赦せば赦されると考えるかもしれませんが、それなら殺人事件など被害者が亡くなっている場合には加害者が赦されることはなくなります。その場合は、被害者の親族が赦せば赦されると考えるかもしれませんが、戦争孤児で親族が全員亡くなってしまった身寄りのない子どもが殺人事件の被害者などの場合には、誰も加害者の罪を赦すことができません。民衆が赦せば赦されるとした場合、どんな民が何人くらい赦したら赦されるのかという基準を設けるのは難しく、全国民や全人類となれば、ほぼ赦されることは不可能になります。

裁判は、法に則った罪の有無や、〈計量の技術〉によって刑の重さを決めるためのもので、罪を赦すという類のものではありません。刑罰は、〈正義〉に照らして歪みの解消を目指すため、赦しを与えることに近いのかもしれませんが、それのみで「裏の喜び」や「悲しみの喜び」を求めてしまう「罪の子」の霊魂の〈不幸〉な活動をも解消でき、赦しを与えられるとは限りません。刑を終えても霊魂が歪んだまま再犯を繰り返す人もいるということが、刑罰のみで赦しを与えることは不可能な証拠になります。また、明るみに出ない罪や法律で定められていない罪、自認できていない罪などもあり、他者の与える刑罰が赦しの条件であるならば、そういった罪が赦される可能性はなくなります。

『道徳を向上させよ。倫理を新しくせよ。法律を少なくせよ。何れも一段づつ上げねばならん』(秋の巻 第四帖)

そのため、人間にできるのは”罪を赦す”ことではなく、”何かの権利を許す”ことだけだと考えます。例えば、罪を犯した人が刑務所に入り刑期を終えて出所したとき、それは”罪を赦した”のではなく、”一市民として社会との関係を許した”ということになります。”赦し(Forgive)”と”許し(Allow)”の違いもここにあります。

“罪の赦し”は、本人が赦されたいと望んだときのみ、”その人の内なる神だけが与えてくれる”ものと考えています。罪を犯してしまったその人自身が、何が罪なのかを自認して、さらに赦されたいと神に祈って償い、「悔い改める」ことで罪は赦されるのではないでしょうか。この”赦し”であれば、明るみに出ない罪などの犯罪者であっても赦される可能性はあります。

『神には何も彼も分りてゐるのざと申してあろがな、早く兜脱いで神にまつはりて来いよ、改心すれば助けてやるぞ、鬼の目にも涙ぞ、まして神の目にはどんな涙もあるのざぞ、どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ』(富士の巻 第二十七帖)

『今迄して来た事が、成程 天地の神の心にそむいてゐると云ふこと心から分りて、心からお詫びして改心すれば、この先末代身魂をかまうぞ、借銭負うてゐる身魂はこの世にはおいて貰へん事に規則定まったのざぞ、早う皆に知らしてやれよ』(キの巻 第八帖)

刑罰は罪を赦すためのものではなく、きっかけとなるもので、受刑者が自身の罪と向き合い続けることで”赦し”を望めるようになる準備と、社会が元受刑者を受け入れられるようになる準備のためのものであると考えます。

ひふみ神示には「人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ」とあります。キリスト教においても信者が司祭に罪を告白しますが、その目的は罪を赦すことではなく、自らの罪を自認し神への懺悔に心を向けさせることが目的なのではないでしょうか。

『改心と申して、人間の前で懺悔するのは神国のやり方ではないぞ、人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ、懺悔の悪きコトに倍した、よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ、そのコトに神うつりて、何んな手柄でも立てさせて、万劫末代名の残る様にしてやるぞ。この仕組判りたら上の臣民、逆立ちしておわびに来るなれど、其の時ではもう間に合はんから くどう気付けてゐるのざぞ』(第八巻 磐戸(一八十)の巻 第十八帖)

罪が赦されるか赦されないかは、すべて本人次第です。赦しを望んで神に祈り続け、本心から謝罪し償い、改心した罪人が赦されるのを、誰かが阻止することはできません。その逆に、神に赦しを祈っていない罪人に、誰かが赦しを与えることもできません。

「罪の子」の中には、自らの罪を自認できていないか、あるいは自認していながら赦しを望まない人もいると思われますが、赦しを望むように他者が諭すことはできたとしても、本人がその望みを持つことができなければ、たとえ神であっても罪を赦すことはできないのではないかと感じています。

次の帖にある「罪ゆるすことぢゃ」というのは、”罪を犯すことを許可”したり、”犯した罪を赦せ”ということではなく、「非を覚らせて反省を促すことで、その人自身が自らの罪を赦すことに繋がる」という意味に解釈しています。

『人民をほめること よいことぢゃ。ほめて、その非をさとらせよ。罪ゆるすことぢゃ。もの生かすことぢゃ。生かして使ふことぢゃ。神示(フデ)ひろめることぢゃ。やって見なされ。必ずうれしうれしとなるぞ。栄えるぞ』(春の巻 第八帖)

この考えでは、人間には他者の罪を赦すことはできないため、被害者やその親族も加害者の罪を赦そうとする必要はありません。ですが、加害者が償い改心したにも関わらず、社会との関係までも完全に”許容しない”とするのは、反対に歪みを生み出し、今度は被害者が「罪の子」となってしまいます。

そのため、被害者と加害者が顔を合わせるような関係までを無理に”許容”する必要はありませんが、離れた場所で社会に加わることを”許容”する必要はあるように思います。

そうすることで、加害者に対する”恨み”で心をいっぱいにしたり、”憎しみ”に支配されることなく、被害者も自分自身を”許容”し、〈不幸〉から〈幸福〉に向かっていく準備ができるのではないでしょうか。

唯物論的な観点からみた信仰の必要性

ここは余談です。一層ややこしいので、興味があれば読んでみてください。

“これからの人類は「人間は罪の子ではなく、喜びの子であり神の子である」という心を持って、根本の大神様と本質的に一体であることを意識しながら生きていくことが必要”だと前述しましたが、それは”唯物論者”であっても同様だと考えます。

人間のような多細胞生物は単細胞生物が進化し誕生したと考えられています。微小な生物が、人間などのより巨大な生物を構築する仕組みとして、進化の前段階で巨視的な構造の全体像を互いに共有し合う必要があると推察できます。おそらく遺伝情報がそれにあたるものです。しかし、人間を構築しようとする微生物にとって、その全体像は妄想や幻想に近いものであり、見ることも触れることもできない存在です。これはちょうど人間が神を信じるような状況と同じです。

もしいま、元々は単細胞生物だった人間の細胞同士が、見ることも触れることもできない人間という存在に対する信仰をなくした場合、人体は崩壊に向かい、分解によって細胞は細胞であることをやめるのではないかと思われます。これと同様に、人間が神という見ることも触れることもできない存在への信仰をなくした場合、人間にとっての神もまた崩壊し、分解によって人間は人間であることをやめる可能性があります。

『総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に、大神が生み給ふたのであるぞ』(冬の巻 第一帖)

『宇宙は霊の霊と物質とからなってゐるぞ。人間も又同様であるぞ。宇宙にあるものは皆人間にあり。人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう』(冬の巻 第一帖)

解釈6の3」では、形相(設計図のようなもの)としての巨視的な構造概念からの退化の流れと、質料(素材のようなもの)としての微視的な構造物からの進化の流れが結びつくことで、段階的に構造物が構築されていくのではないかと述べました。

ですが、もし仮に物質からの一方向のみを考える”唯物論”が正しいとして、物質の最小単位が予め自らに内在している情報を想起し互いに共有し合うことによって巨視的な構造体に進化しているにしても、あるいは物質の最小単位が自らの意志で能動的に新たな情報を外部環境から獲得し互いに経験を共有し作用し合うことによって巨視的な構造体に進化しているにしても(全ての物質が”静止”していたり、物質同士が接近しても全て”すり抜け”たりするならば、構造体を構築することはできないため、”能動的機能による始動”とその相対の”受動的機能による作用”の両方が不可欠で、その両機能を物質に求めるものとする)、単細胞生物が多細胞生物に進化するように、同列の構造体においてより巨視的な構造の全体像(人間においては家族、社会、国家、国際、地球、太陽、惑星系、銀河系、全宇宙、神など)を互いに共有し信仰することは、現在のそのもの自身の構造を維持するために必要不可欠なことなのかもしれません。

微視的な物質の最小単位に巨視的な神という概念が予め内在しているとしても、あるいは”微視的な物質の能動(全能)的な無意識”の相対にある”最も巨視的な構造の受動(全知)的な意識”のことを神と名づけているとしても(前野隆司教授の『受動意識仮説』を拡張して、意識を人間などの多細胞生物という物質の集合のみに生じる神秘的な例外として人間中心主義や天動説的に捉えるのではなく、全ての物質やその集合にそれ相応の意識が生じていると仮定し、人間の意識は神などのより巨視的な構造物の無意識の一部である可能性を考える)、人間にとって最も巨視的な構造概念であり、全てを包括する【神】という存在に対する信仰は、他の巨視的な構造概念よりも安定して存在するため(惑星系や銀河系にも寿命がある)、唯物論的な観点からみても理に適ったものだと考えられます。

西田幾多郎も、『善の研究』において次のように述べています。

即ち宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである。而してこの唯一実在はかつていったように、一方においては無限の対立衝突であると共に、一方においては無限の統一である、一言にていえば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。

西田 幾多郎. 善の研究. 青空文庫. p.92(Kindle 版)

一方で、全ての事象とその順番までも予め完璧にプログラムされているという唯物論の場合、巨視的な構造概念に対する信仰の有無は、自身の構造の維持とは関係ありませんが、量子力学において「電子などの素粒子では、その位置と運動量の両方を同時に正確に計測することができないという原理」(不確定性原理)が正しいとすれば、この可能性はないと思います。

『これほどことわけて申しても得心出来ないのならば、得心の行くまで思ふままにやりて見なされよ。そなたは神の中にゐるのであるから、いくらあばれ廻っても神の外には出られん。死んでも神の中にゐるのであるぞ。思ふさまやりて見て、早う得心改心いたされよ』(月光の巻 第五十三帖)

『宇宙は人間の心のままと申してあらうが。宇宙は未完成のものと申してあらうが。永遠に未完成であり、弥栄であるぞ。そこに生命あり、喜びあるのぢゃ。大神の中で、宇宙はなりなりてゐるのであるから、ナリ、永遠になるのであるぞ。不変の中に千変万化、自由自在の存在を与へてあるのぢゃ』(黒鉄の巻 第三十七帖)

余談でした。

おわりに

お疲れさまでした。短く済ませるつもりだったのですが…、今回も書いているうちにかなり長くなってしまいました。”幸福の構造”や、ひふみ神示にある「喜びの子」や「罪の子」についての考察でした。

『新玉の 真珠の波も 草も木も 春立ちそめて よみかへりけり。

今の科学は科学のことは判るが、それより上のことは判らん。今の科学はあるものがあると云ふことだけしか判らんのぢゃ。よい求めにはよい感応、よい感応によい働き、よい理解となり、よい生活 生れる。間違った求めには間違った神、間違った生活 生れるぞ。道理ぢゃナア。窮屈であってはならん。しかつめらしく固くなってゐてはならんぞ。笑ひの道、喜びの道にこそ神のハタラキあるのぢゃ。宿命は宿されたもの。一つのワクに入ってゐるのであるぞ。運命は自分で切りひらくこと出来るぞ。磨け磨け、ミタマ磨き結構。信念だけでは行き詰るぞ』(春の巻 第三十三帖)

最後にまた余談ですが、一連の投稿の内容を考えながら色々と調べていたら、またちょっと変なことを思いついてしまいましたので、ここに記しておきます。

「腸内フローラ」や「腸内細菌叢(ちょうないさいきんそう)」といわれる腸内細菌の多様性が健康にとって重要だと注目されています。「フローラ」は”ローマ神話の花と春の女神”に由来していて、「叢(そう)」は”くさむら”を意味しています。そして、さらに「腸脳相関」といわれるものがあり、腸と脳の状態が相互に影響を与え合っているということも分かってきています。

ということは、「腸内フローラ」と同様に、これから「脳内フローラ」が注目される時代がくると予想されます。ある程度の”お花畑”的な思考はストレスを軽減し、人体の健康にとっても重要なのかもしれません。

かといって、”お花畑”的な思考や”平和ボケ(能天気)”に偏り過ぎてもいけないのかもしれませんが、”焼け野原”的な思考や”戦争バカ(神経質)”との二項対立ではなく、これもまたバランスが大事なんだと思います。”炎症”は防衛のために必要なものですが、様々な病気を引き起こす原因にもなります。

ちょっと脱線したので、話を戻します。「腸内フローラ」に対しては「脳内フローラ」としましたが、漢字の「腸内細菌叢」に対しては「脳内幾星叢(のうないいくせいそう)」と名付けたいと思います。”幾星叢(いくせいそう)”は”幾星霜(いくせいそう)”にかけています。

“幾星霜”は”苦労”を重ねた年月を”冬の霜(しも)”に例えているそうです。それに対して、”幾星叢”は”歓喜”を重ねた年月を”春の叢(くさむら)”に例えました。”幾つもの星々が幾つもの年月、互いに多様な性質を受容し調和しながら輝くお花畑”みたいに、これまでのような”苦労”の連続を感じる時代から、”歓喜”の連続を感じられるような時代への移行を願った言葉です。

「冬ごもり」から「今は春べと」、”喜び”が咲き続けるような「花咲く御代」を迎えられたらいいなと思います。

『今度は苦労のかたまりの花咲くのざ、苦の花咲くのざぞ、二二に 九(コ)の花咲耶姫の神 祀りて呉れと申してあろがな、永遠にしぼまん誠の花咲く世来たぞ』(アメの巻 第十一帖)

『やがては二二(ふじ)に九(コ)の花咲くのざぞ、見事二二(ふじ)に九(こ)の火(ほ)が鎮まって、世界治めるのざぞ、それまでは仮でよいぞ、臣民の肉体に一時は静まって、此の世の仕事仕組みて、天地でんぐり返して光の世といたすのぢゃ。花咲く御代近づいたぞ』(カゼの巻 第一帖)

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