2024.11.01
霊魂の構造と二通りの竜神 – ひふみ神示 解釈6の2
前回の続きです。前回は”霊魂の構造”を考えました。今回は、その霊魂から生じる〈徳〉と〈正義〉について考察します。前回よりもさらに長くややこしい話になってしまいました。少しずつ読み進めながら、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
目次
前回の補足
前回の投稿では、西洋哲学の「魂の機能の三区分」に〈寛容の部分〉と〈魂の玉座〉を追加し改変することで、「五行説」や「一霊四魂」に当てはめる形にしましたが、なぜ改変する考えに至ったのか。その理由を補足します。
〈寛容の部分〉に関して、その存在をソクラテスやプラトンも、はっきりとではないにしろ感じていた可能性があると思われます。なぜなら、著書『国家』において、国制の変遷の最後に”隷属的”な性質の「僭主独裁制」を挙げていたからです。”隷属的”な性質は、〈寛容の部分〉が”超過”した場合に生じるものと考えています。
以下は前回も提示したものですが、「魂の機能の三区分」に〈寛容の部分〉と〈魂の玉座〉を追加したときの機能の概要です。
- 理知的部分 – 理性や知性など物事を分別したり理解する部分。(中庸)自省・知慮など…(超過)頑固・狡猾など…(不足)軽薄・愚昧など…
- 欲望的部分 – 生理的欲求や利得欲など欲望全般を生み出す部分。(中庸)節制・希望など…(超過)放埒・強欲など…(不足)無欲・鬱屈など…
- 気概の部分 – 意見を伝えたり、拒否するなどの能動的な部分。(中庸)勇敢・忍耐など…(超過)無謀・憤怒など…(不足)臆病・虚弱など…
- 寛容の部分 – 意見を聞いたり、承諾するなどの受動的な部分。(中庸)傾聴・許容など…(超過)放任・隷属など…(不足)無視・断絶など…
- 魂の玉座(神の道) – 魂の各部分が超過や不足の状態に陥らないように中道を保つ部分。神に繋がる道。
僭主独裁制が成立するのは、民主制以外の他のどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ
プラトン. 国家(下). 藤沢令夫 訳. 岩波書店. 1979(2022). p.247
「最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ」とあります。確かに、民主制や自由主義の追求から僭主独裁制が生まれてくる場合もあるのでしょうが、それらのみから生まれるかどうかについては再考の余地があるように思います。
例えば、王がその子どもを自由に甘やかして育てることで、あらゆる欲望を制御しきれなくなり、横暴な独裁者になる場合が考えられます。また逆に、反論を許さず厳しく育てることで、誰の意見にも耳を貸さない、独善的な独裁者になる場合もあるのではないかと思います。これらの場合は王制から僭主独裁制が生じたことになります。自由に甘やかすことは〈気概の部分〉の”不足”や〈寛容の部分〉の”超過”であり、反論を許さない厳しさは〈気概の部分〉の”超過”や〈寛容の部分〉の”不足”です。
他にも、僭主ではありませんが独裁という意味では、軍事クーデターから軍事独裁政権に移行するなどの場合もあります。これは国家の〈寛容の部分〉の”超過”というよりも、〈気概の部分〉の”超過”が原因となって発生するのではないかと考えられます。ソクラテスやプラトンに倣って、この国家の状態を個人に当てはめるとすれば、自己を懲罰する自傷行為を繰り返しているような状態と捉えられます。
家庭の環境によるものか、国制の環境によるものかを問わず、〈気概の部分〉と〈寛容の部分〉の両方またはどちらかが”超過”や”不足”の影響を受け続けることで、霊魂に歪みが生じます。そして、その歪みに対して揺り戻しの力が働くために、独裁的な性格の集団や人間となってしまうのではないかと考えています。
近代の独裁者として有名なアドルフ・ヒットラーは、父親のアロイス・ヒットラーから肉体的・精神的虐待を受けて育ったといわれています。虐待環境で育った子どもたちを研究していたアリス・ミラーは、著書『魂の殺人』において次のように述べています。
残されている記録を読めばそれほど苦労せずに、アドルフ・ヒットラーの育った家庭の雰囲気が想像できます。彼の家庭の構造を一口で言えば、絶対王制の典型ということになるでしょう。その体制の唯一、絶対、そしてしばしば血なまぐさい支配者は父でした。妻と子どもたちは彼の意志、気分と気まぐれに完全に服従せねばならず、傷つけられても不公平な取り扱いを受けてもそれを口答えせず感謝して受け取らねばなりませんでした。従順こそ彼らの最も重要な生活方針だったのです。もちろん母親には家政上の自分の領域というものがあり、その中にいる彼女は、父親が不在の場合子どもたちの支配者であった。つまり、自分が受けた辱しめを少なくとも部分的に、自分より弱い者を使って自ら慰めることができたのです。絶対主義国家ではこの種の機構が保安警察のような役割を果たしています。自ら奴隷である奴隷監督が独裁者の意を体し、その不在の折には代理となり、主人の名によって恐れを呼び起こし、罰を与え、権利なき者の支配者であるかのようにふるまうのです。
アリス・ミラー. 魂の殺人 新装版 親は子どもに何をしたか. 山下公子 訳. 新曜社 1983(2023). p.191
絶対王制的な父に口答えできない妻と子どもたち、という家庭の構造だったそうです。母親のクララ・ヒットラーは、ここでは奴隷であり同時に奴隷監督でもあったと分析されていますが、また別の見解もあります。
すべての伝記作家は一致して、クララ・ヒットラーはその息子を「非常に愛しそして甘やかし過ぎてダメにした」と言っています。しかしながらまず最初に申し上げておかなければなりませんが、この言い方はそれ自体矛盾を含んでいます。少なくとも、愛するというのは母親が子どもの真に求めているところをよくわかってやり、正しく受け止めることだと理解すればそうなるはずです。そういう状態にない時にはじめて子どもは甘やかされてダメになる、つまり、その子が本来必要としていない物だの許可だのを浴びせかけられてしまうわけですが、しかもそれは、自分自身窮地にあって母親が子どもに与えてやれないものの代用品でしかないのです。ですから甘やかされてダメになったということこそ成人して後の生を決定してしまう重大な欠陥の存在証明なのです。もしアドルフ・ヒットラーが本当の意味で愛された子どもだったとしたら、彼自身も愛することのできる人間になっていたはずです。
アリス・ミラー. 魂の殺人 新装版 親は子どもに何をしたか. 山下公子 訳. 新曜社 1983(2023). p.236
母親のクララから甘やかされ過ぎて「その子が本来必要としていない物だの許可だのを浴びせかけられてしまう」という環境が事実だったとすれば、それは〈寛容の部分〉が”超過”した過干渉や放任の状態であり、同時に本当の意味で必要な”対話”を避けた〈愛〉の希薄な状態でもあったと考えられます。
父親からも母親からも、〈気概の部分〉と〈寛容の部分〉のそれぞれの”中庸”ではなく”超過”や”不足”のみを受けて育ち、また充分に〈愛〉されていない環境も重なったとすれば、アドルフが独裁的な性格に育ってしまった原因はここにあるのかもしれません。ですが、両親のみの責任とするだけでこの問題を片付けるのではなく、これを教訓に、家庭にも国制にも国家間にも虐待環境を生み出さない社会を目指すことが重要です。
話を戻します。このように、「魂の機能の三区分」に追加した〈寛容の部分〉は危険な側面を孕んでいるのかもしれませんが、もし霊魂にその部分があるのだとすれば、「最も野蛮」になる可能性があるからといって、無視するわけにもいきません。
〈善〉や〈正しくある〉とは「内部分裂がない」状態のことと、ソクラテスやプラトンはいっています。
ではわれわれは、およそ国家にとって、国を分裂させ、一つの国でなく多くの国としてしまうようなものよりも大きな悪を、何か挙げることができるだろうか? あるいは、国を結合させて一つの国たらしめるものよりも、何か大きな善を言うことができるだろうか?
プラトン. 国家(上). 藤沢令夫 訳. 岩波書店. 1979(2022). p.416
してみると、魂の全体が知を愛する部分の導きに従っていて、そこに内部分裂がないような場合には、それぞれの部分は、一般に他の事柄に関しても、自己自身の仕事と任務を果しつつ、〈正しくある〉ことができるとともに、とくに快楽に関しても、それぞれが自己本来の快楽、最もすぐれた快楽、そして可能なかぎりでの最も真実な快楽を、享受することができるのだ
プラトン. 国家(下). 藤沢令夫 訳. 岩波書店. 1979(2022). pp.319-320
そして、”一個人”と”一個人の集まりである国家”の霊魂の構造が、下記の引用にあるように「相似た」ものであるとすれば、さらに”国家の集まりである国際”の霊魂に関しても同様に「内部分裂がない」状態が〈善〉であり〈正しくある〉といえます。
まずはじめに、国家においては〈正義〉はどのようなものであるかを、探求することにしよう。そしてその後でひとりひとりの人間においても、同じことをしらべることにしよう。大きいほうのと相似た性格を、より小さなものの姿のうちに探し求めながらね
プラトン. 国家(上). 藤沢令夫 訳. 岩波書店. 1979(2022). p.144
ですが、西洋哲学の影響を強く受け、科学技術や学術的な理論など理知的に優れ、発展しているはずの西洋の国々でも、欲望の追求を目的とした利権争いや経済競争、気概の暴走が引き起こす政治闘争や戦争など、過去にも現代にも様々な分裂や分断を引き起こしてしまっているのが実状です。
哲学や思想が変遷した現在でも、ソクラテスやプラトンが目指した〈善〉や〈正しくある〉状態は残念ながら実現できていません。霊魂の構造をもう一度改めて捉え直し、一個人にも国家にも国際にも当てはまる「内部分裂がない」ような”相似形”を導き出そうとする試みが、今こそ必要だと思われます。正答に辿り着けるかどうかは分かりませんが、ひとつの試みとして、西洋哲学の「魂の機能の三区分」を改変し、「五行説」や「一霊四魂」に当てはめる考えに至りました。
徳と正義について
長くなってしまいましたが、ここからが今回の本題です。
徳に関する矛盾とその回避
プラトン著『プロタゴラス』においてソクラテスは”徳は教えることができないが、徳は教えることができる”という面白い結論に至っています。
きみ[ソクラテス]のほうは、最初のうちは、徳は教えることができないと言っていた。ところがいまは、その自分の意見に反対のことを熱心に主張して、正義や節度や勇気などのすべてのものが知識であることを証明しようとしている。だが、そんなことをすれば、徳は教えることができるということがきわめて明白になってしまうのだよ。
プラトン. プロタゴラス~あるソフィストとの対話~. 中澤務 訳. 光文社. 2010(2023). p.197
この矛盾は、〈徳〉と〈正義〉を同列に扱うことで解決できると考えています。ソクラテスは”勇気”に関する対話の中で次のように述べました。
「『さて、大衆諸君。これで、ぼくたちの生活の安全を保障してくれるものは、快楽と苦痛の正しい選択のうちにあることが明らかとなった。そして、その選択とは、多いものと少ないもの、大きいものと小さいもの、遠いものと近いものの選択であった。だから、それがまず第一に計量の技術だということは明らかではないだろうか? なぜなら、お互いをくらべて、どちらが超過しているとか、どちらが不足しているとか、あるいは両者が等しいとかいったことを調べるわけだから』」
プラトン. プロタゴラス~あるソフィストとの対話~. 中澤務 訳. 光文社. 2010(2023). pp.180-181
「そのとおり」
「『しかるに、計量の技術なのだから、それは必然的に技術であり知識でなければならない』」
ソクラテスが語った「ぼくたちの生活の安全を保障してくれるもの」に対しても、「計量の技術」に対しても(裁判所のテミス像が持つ天秤など)、”勇気”というよりも〈正義〉の方がしっくりくるのではないでしょうか。”勇気”は、他者に意見を伝えたり、何かに立ち向かったりするときに発揮するものであるため、霊魂においては〈気概の部分〉に属するものと考えられます。そして、さらに〈気概の部分〉は〈正義〉に属していると考えられます。果敢に相手に立ち向かうといったイメージが〈正義〉にあるのはこのためです。これらを根拠に、”勇気”は〈正義〉に属しているものと考えます。
アリストテレスは「ニコマコス倫理学」で〈正義(ディカイオシュネー)〉に関して次のように述べています。
不正なひと(アディコス)であると考えられるものには、一方では「違法的なひと」(パラノモス)があり、他方では過多をむさぼりがちな「不均等的なひと」(アニソス)があるのであって、したがって、正しいひと(ディカイオス)とは、「適法的なひと」(ノミモス)、ならびに「均等を旨とするひと」(イソス)であることは明らかであろう。
アリストテレス. ニコマコス倫理学(上). 高田三郎 訳. 岩波書店. 1971(2022). p.222
「均等を旨とするひと」ということは必然的に〈計量の技術〉を有していて、その技術を正しく使えることが〈正義〉の前提といえます。商取引において等価交換ではなく、不等式で表現できるような過多をむさぼる事例が〈不正〉であることは、想像しやすいのではないでしょうか。
〈徳〉は人それぞれに固有のものであるため、人に教えることはできません。一方、”勇気”が属している〈正義〉は〈計量の技術〉であるため、知識として教えることができます。このように”徳は教えることができないが、正義は教えることができる”とすることで矛盾を回避できます。
徳とは何か
〈徳〉とは「霊魂に備わった特性が充分に発揮された状態である」と考えています。〈理知的部分 = 東木 = 奇魂〉と〈欲望的部分 = 西金 = 幸魂〉の中道にあり、人それぞれの特性、興味や欲求の対象の違い、生得的な能力によっても適性が分かれるため、個別の〈徳〉に関する知識や技術を教えることはできても、〈徳〉そのものを教えることはできません。こういった〈徳〉による個性があるからこそ、適材適所に人の働きがあり、社会は円滑に営まれていきます。
日本の哲学者である西田幾多郎は、アリストテレスやスピノザを引用しながら、〈徳〉や〈善〉について次のようにいっています。
即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースのいわゆる entelechie が善である)。竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。スピノーザも「徳とは自己固有の性質に従うて働くの謂に外ならず」といった。
西田 幾多郎. 善の研究. 青空文庫. p.142(Kindle 版)
古代中国の思想家である老子も、〈徳〉は教えられたり身につけたりするものではなく、さらには人を含めた万物に備わっている”はたらき”であると考えていたそうです。老子の〈徳〉についての考えに関して、「全文完全対称版 老子 コンプリート」の訳者 野中根太郎は、次のように解説しています。
「老子」にいう「徳」は、「道」が万物を生み出し、それをこの世で育て伸ばしていくはたらきのことといっているようだ。たとえば、養徳第五十一は、「『道』が万物を生み出し、徳がそれを養い、ものになったものが、それぞれに形を与え、『道』の自然の勢いが万物を完成させていくとする。そういう意味で、万物はすべて『道』を尊び、徳を尊ぶのである」としている。
「老子」は「論語」にあるように、「道」とはこうあるべきとか、「徳」はこうして身につけようという、人間がさかしらな知恵で考え出したものは、為政者など権力側に都合のいい考えとなりやすいことを批判しているのである。
老子. 全文完全対称版 老子 コンプリート. 野中根太郎 訳. 誠文堂新光社. 2019(2021). pp.203-204
ひふみ神示にもこのようにあります。
『早よ改心第一ぞ。山も川も野も人民も草も木も動物虫けらも何もかも此の方の徳であるぞ。それぞれの御役あるのざぞ。学や智捨てて天にむかへ。地にむかへ、草にむかへ、生物にむかへ、木にむかへ、石もの云ふぞ。草もの云ふぞ』(松の巻 第二十八帖)
『此の世の位もいざとなれば宝も富も勲章も役には立たんのざぞ、此の世去って、役に立つのは身魂の徳だけぞ、身についた芸は其の儘役立つぞ。人に知れぬ様に徳つめと申してあろがな、神の国に積む徳のみが光るのざぞ』(日の出の巻 第二十三帖)
世俗的な名誉や富が得られるといったものや、権力者が恣意的に作り出した評価制度に適うことのみを目指すような、無理に曲げられた自分本位なものは本来の〈徳〉ではなく、自然に導かれるように与えられ、見返りを求めずとも自分の喜びとなるようなものが本来の〈徳〉だと思われます。そして、それを積んでいくことで〈神徳〉が貰えるのかもしれません。
『貰うた神徳に光出す人民でないと、神徳をわれよしにする人民にはおかげやらん。自分が自分で思ふやうになるまいがな。自分が自分のものでないからぞ。自分のものなら自由になると申してあらうが。道を進めば楽に行ける。道行かんで山や畠や沼に入るから苦しむのぞ。神の仕組の判る人民二三分出来たら、いよいよにかかるぞ』(黄金の巻 第七十四帖)
『われがわれがと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証拠ぞ、鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。ここまでわけて申さばよく分かるであろう、何事も真通理(まつり)が第一ぞ』(富士の巻 第二十二帖)
正義とは何か
〈正義〉とは「様々な関係における均衡を保つための〈計量の技術〉である」と考えています。〈気概の部分 = 南火 = 荒魂〉と〈寛容の部分 = 北水 = 和魂〉の中道にあり、〈計量の技術〉であるため教えることができます。理知と欲望、心と体、夫と妻、親と子、企業間、国家間など様々な関係において利害の不一致などの対立があります。そういった対立関係がありながらも、成熟した人々や社会の内部で分裂が生じないのは、自己の主張を伝えたり、他者の主張に耳を傾けることで関係に均衡が保たれているからです。
ひふみ神示には次のような記述があります。
『正しくないものが正しい方に従はねばならんと人民申して御座るなれど、正とか不正とか申す平面的衣を早うぬいで下されよ』(極め之巻 第十四帖)
〈正義〉における〈計量の技術〉は等式・不等式を扱い、真偽の判定、過不足の測定、商取引、裁判などに関わります。不均等や不公平をなるべく小さくし、軽重がないようにバランスを保つことがこの技術の本来の目的です。天秤の傾きによって、どちらが”正しい・正しくない”や”重い・重くない”を判断するのは二義的なもので、その傾きを是正するところに最終的な目標があります。
そのため、一般的な考え方とは異なりますが、〈正義〉と〈正義〉が衝突するという状況は本来なく、〈正義〉同士では、双方が互いに〈計量の技術〉によってバランスの崩れを感じ取り、常に等式を保とうとするような関係になります。相手よりも多くの勝利や財貨を獲得しようとするような、互いに自らの方に傾いた不等式を目指すような関係は、〈計量の技術〉を持たない者同士の〈不正〉と〈不正〉の衝突ということになります。
天秤の不均衡を利用して勝敗を決めるスポーツやゲームなどは、互いに自らの方に傾いた不等式を目指すような関係なので、本来は〈不正〉同士の衝突となります。ですが、逸脱しないためのルールがあり、プレイヤーやレフェリーだけでなく、サポーターや観客も含めて公正(フェアプレーやフェアな判定)というものを意識することになるため、疑似体験によって〈計量の技術〉をトレーニングする役割を担うのではないかと思います。また、競技中・競技後の感情や結果の受容なども、〈気概の部分〉や〈寛容の部分〉のコントロールの仕方を学ぶことに役立っていると考えられます。
スポーツやゲームは天秤の不均衡を利用し勝敗を決めますが、現実的な生活はそれらとは違い勝敗を決めるものではないはずです。ビジネスの世界でもプレイヤーという言葉が使われたり、企業ランキングなどもあり、活動の中で天秤の不均衡はどうしても生じるため、ゲーム的なものと勘違いしやすいのも事実です。ではあるものの、〈計量の技術〉を正しく発揮できれば、逸脱せずに均衡は保たれ、人の生死に関わる必要以上の格差や不公平は生まれないものと思われます。社会全体に〈正義〉が行き渡っている場合には、利権争いや経済競争を起因とする保身や揺り戻しのための戦争も生じることはありません。
『いくさは善にもあり、悪にもあり、右には右の、左には左の、上には上の、下には下の、中には中の、外には外のいくさあるぞ。新しき御代が到来しても いくさはなくならん。いくさも歩みぞ。弥栄ぞ。ぢゃと申して今のような外道のいくさでないぞ。人殺し、生命殺すようないくさは外道。やればやる程はげしくなるぞ。正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ。今の人民いくさと申せば、人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。天国へのいくさもあるぞ。幽界へのいくさもあるぞ。人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、人殺す外道の道、それではならんのう。外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神のみ旨であるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ。新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん。外道の武器すてよ。外道の武器生かして、活かして、いのちを生かす弥栄の武器とせよ。かへられるでないか。』(春の巻 第四十二帖)
「正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ」とあります。誰もが色々な感情を持ち合わせているため、関係が生じるところには必ず感情の衝突があり、”いくさ”がありますが、”対話”によって成長があり、歩み寄ることでさらに一体となります。
これからの人類は、〈正義〉において「自らを重く見せかける技術」ではなく「均衡を保つための〈計量の技術〉」を身に着けて、「天秤の道具(おもり)として使われる者」ではなく「天秤を道具として使える者」になっていくべきなのかもしれません。
『今迄して来た事が、成程 天地の神の心にそむいてゐると云ふこと心から分りて、心からお詫びして改心すれば、この先末代身魂をかまうぞ、借銭負うてゐる身魂はこの世にはおいて貰へん事に規則定まったのざぞ、早う皆に知らしてやれよ』(キの巻 第八帖)
『とりちがへと天狗が一番恐いのざぞ、千匁(せんじん)の谷へポンと落ちるぞ。神の規則は恐いぞ、隠し立ては出来んぞ、何もかも帳面にしるしてあるのざぞ、神の国に借銭ある臣民はどんなえらい人でも、それだけに苦しむぞ、家は家の、国は国の借銭済(な)しがはじまってゐるのぞ、済(す)ましたら気楽な世になるのぞ、世界の大晦日(おおみそか)ぞ、みそかは闇ときまってゐるであらうがな。借銭(かり)返すときつらいなれど、返したあとの晴れた気持よいであらうが、昔からの借銭ざから、素直に苦しみこらへて神の申すこと、さすことに従って、日本は日本のやり方に返して呉れよ』(地(九二)つ巻 第三十五帖)
ひふみ神示によく登場する「借銭」は、様々な関係におけるバランスシートの負債のようなものと捉えています。「自分たちさえ良ければいい」といった心持ちで、必要以上に多くを得て関係全体のバランスを崩してしまった国々や人々。のみならず、人類全体も地球環境や動植物に対して多くの負債を負っているように感じます。この「借銭」の返済には、その大きさに応じた苦しみが伴いますが、それを乗り越えた先には「気楽な世」が待っていると解釈しています。
『まつりてない時はお日様とお月様おろがめよ、マトとせよ。裁判所(しらす)いらんぞ、牢獄(ろうや)いらんぞ、法律いらんぞ、一家仲ようしたらいらんのぢゃ、国も同様ざぞ。そんな事すれば、世の中メチャメチャぢゃと申すであらうが、悪人がとくすると申すであろが、誰も働かんと申すであらうが、与へる政治だめぢゃと申すであろ、人間の小智恵ぢゃ』(一火リの巻(ヒカリの巻) 第四帖)
〈計量の技術〉を正しく扱える人々が集まれば〈正義〉が社会全体に行き渡り、必要以上の格差や不公平がなくなるため、裁判所や刑務所も必要なくなり、「生活の安全が保障されている」と心から実感できるような世界が現実となるのかもしれません。
徳と正義の関係
〈徳〉と〈正義〉の関係は、次の図のようなものと考えています。
〈徳の軸〉と〈正義の軸〉が十字に交わっています。両方の軸の中道(中心点)に位置するということが、魂の玉座(神の道) = 中土 = 直霊(直日)にいる状態です。数学で用いられるXY座標でいえば、原点(0, 0)の位置です。「直霊(直日)」というのは、ひふみ神示にある「真上に真すぐに光(日)」を戴いた状態だと解釈しています。また、ここが根本の神様と繋がる「神の真道」でもあると思われます。
『斜めや横から戴くと光だけ影がさすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きいものには大きい影がさすと臣民申して、止むを得ぬ事の様に思ふてゐるが、それはまことの神の道知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でない様な影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが。真上に真すぐに神に向へば影はあれど、影無いのざぞ、闇ではないのざぞ。此の道理 会得るであろがな、神の真道(まみち)は影無いのざぞ、幾ら大きな樹でも真上に真すぐに光戴けば影無いのざぞ、失敗(しくじり)無いのざぞ、それで洗濯せよ掃除せよと申してゐるのぞ、神の真道(まみち)会得(わか)りたか』(日の出の巻 第十三帖)
霊魂の状態の例として、〈徳〉が〈欲望的部分〉の方に歪み、その欲望を実現するために〈正義〉が〈気概の部分〉の方に歪んでいる場合には、先程の図(座標)の右上に位置していることになります。必要以上の”富(欲望)”の獲得を目指して他者を”虐げる(気概)”ような場合などがこれに当たります。この状態では「直霊(直日)」から逸脱し、斜めから日を受けることになるので影ができてしまいます。そのままの位置に居続けることで、影がさした部分は闇となります。
『プラスとマイナスと和合せねばならん。只の和合ではムになって力出んぞ。今迄の和合のやり方ではならん。喜びの和合。融け合ふ和合。ある和合でないと、少しでも曇りありたら和合でないぞ。こらへこらへてゐるのでは和合でないぞ。今迄の和合の仕方ではカスあるであらうがな。悪の和合であるぞ』(黒鉄の巻 第五帖)
どちらかのみがプラスのまま優位に立ち、片一方はマイナスのまま苦しい思いをするような関係は、合算すれば0になり、計算上は和合したようにも見えますが、マイナスにいる方はずっと”堪えている”状態です。これが「悪の和合」ということなのかもしれません。
霊魂は様々な要因から影響を受け常に揺れ動くため、影のない中心点であっても静止を続けることはできません。であるならば、プラスとマイナスを行ったり来たりすることが中道を目指すということで、曇りのない「喜びの和合」と言えるのかもしれません。それは、〈徳〉においても〈正義〉においても偏りなく、波のように相互にプラスとマイナス(座標の中心点)を行ったり来たりするような関係となります。
『道は真直ぐとばかり思ふなよ、曲って真直ぐであるぞ、人の道は無理に真直ぐにつけたがるなれど曲ってゐるのが神の道ぞ。曲って真直ぐいのざぞ。人の道も同じであるぞ』(日月の巻 第二十七帖)
老子も「道(タオ)」という言葉を使っていますが、この「神の道(真道)」と同じものであると解釈しています。下記の帖にある「三つの道」とは、おそらく色々な意味が含まれているとは思いますが、その中の一つの意味として、〈徳〉における中道の「道徳」と、〈正義〉における中道の「道義」と、〈愛〉における中道の「神の道(真道)」があると考えています。〈愛〉ついては次回考察する予定です。
『道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ、終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ』(地(九二)つ巻 第十一帖)
中心点の「直霊(直日)」の付近にいる状態というのは、老子のいう〈無為〉という言葉の意味にも近いように感じています。老子の「安民第三」は、野中根太郎によって次のように現代語訳されています。
人の賢愚は相対的なものであって一つに決めつけることはできない。それなのに為政者の都合で賢を決めつけてしまいがちだが、ある一方の面での賢を重視しなければ、人々は争わなくなる。同じく手に入れにくい財宝などの品も、それを貴ばなければ、人々は盗みなどしなくなる。欲望を見せなくすれば、人々は心を乱すことはなくなる。
こうして「道」と一体となっている聖人が政治を行うときは、人々の心をつまらない考え、知識で満たされないように空っぽにさせ、腹いっぱいに食べさせ、人々の志がつまらない欲にとらわれないように弱め、身体を健康で強くするのである。いつも人々がつまらない欲と知識をもたない状態にさせ、いわゆる知者たちが人々をたぶらかさないようにするのである。このように、無為の政治をしていれば、うまく治まっていくのだ。
老子. 全文完全対称版 老子 コンプリート. 野中根太郎 訳. 誠文堂新光社. 2019(2021). pp.18-19
「いつも人々がつまらない欲と知識をもたない状態にさせ、いわゆる知者たちが人々をたぶらかさないようにするのである。このように、無為の政治をしていれば、うまく治まっていくのだ」とあります。
老子の〈無為〉とは、為政者や世間体からのつまらない欲と知識に惑わされず、自然体で自分のやるべきことに集中できる状態であると考えています。「無為の政治」とは、作為的に何かを為そうとするのではなく、すべての人が無理せず自然体でありながら、全体がうまく調和した政治なのかもしれません。
霊魂において四方(四魂)のどこにも過不足なく、〈徳〉と〈正義〉の両方の軸の中道(中心点)付近に位置している場合には、老子のいうような”無為自然”な状態になると思われます。
『神の道 無理ないと申してあろが。水流れる様に楽し楽しで暮せるのざぞ、どんな時どんな所でも楽に暮せるのざぞ。穴埋めるでないぞ、穴要るのざぞ。苦しいという声 此の方嫌ひざ。苦と楽 共にみてよ、苦の動くのが楽ざぞ。生れ赤児みよ。子見よ、神は親であるから人民守ってゐるのざぞ。大きなれば旅にも出すぞ、旅の苦 楽しめよ、楽しいものざぞ。眠くなったら眠れよ、それが神の道ぞ。神のこときく道ざぞ。無理することは曲ることざぞ。無理と申して我儘無理ではないぞ、逆行くこと無理と申すのざ。無理することは曲ることざ、曲っては神のミコト聞こへんぞ』(カゼの巻 第一帖)
ソクラテスやプラトンは国家における〈正義〉を次のような意味で捉えていて、これは老子の〈無為〉に似たものなのではないかと解釈しています。
その人の生まれつきが本来それに最も適しているような仕事を、一人が一つずつ行なわなければならないということ(中略)そして、自分のことだけをして余計なことに手出しをしないことが正義なのだ、ということも、われわれはほかの多くの人たちから聞いてきたところだし、自分でもしばしば口にしたことがあるはずだ
プラトン. 国家(上). 藤沢令夫 訳. 岩波書店. 1979(2022). p.333
「余計なことに手出しをしないことが正義なのだ」とありますが、おそらくは「余計な手出しをさせないこと」が〈正義〉なのではなく、「余計な手出しの必要がないこと」が〈正義〉なのだと思います。
生まれついての靴作りはもっぱら靴を作って他に何もしないのが正しく、大工は大工の仕事だけをするのが正しく、その他すべて同様であるという、あのことはね
プラトン. 国家(上). 藤沢令夫 訳. 岩波書店. 1979(2022). p.367
ひふみ神示にもこのようにあります。
『世界中まるめて神の一つの詞(王)で治めるのぞ。それが神のやり方ぞ、百姓は百姓、鍛冶は鍛冶と、今度はとことはに定まるのぞ、身魂の因縁によりて今度はハッキリと定まって動かん神の世とするのぞ、茄子の種には瓜はならんぞ、茄子の蔓に瓜をならすのは悪の仕組、今の世はみなそれでないか。これで世が治まったら神はこの世に無いものぞ』(上つ巻 第二十八帖)
本当の意味であらゆる〈正義〉が歪みのない状態にあれば、それは「ぼくたちの生活の安全を保障してくれるもの」となり、あらゆる〈徳〉もまた歪みのない状態となります。歪んだ利己的な欲望を、気概によって他者に無理強いする人がいないということは、理性によって無理に怒りを押さえつけたり、不当な扱いに対して無理な寛容を強いられる人もいないということです。そうなれば、個々人は”無為自然”に自分のやるべきことだけをして、余計な手出しも心配も必要なく、安心して暮らしていける社会になるのではないでしょうか。
長くなってしまいましたが最後にもう一つだけ。
前項の最後に、〈計量の技術〉を正しく扱える人々が集まれば「必要以上の格差や不公平がなくなる」と述べましたが、完全な平等や公平という意味ではありません。
『平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地をよくみよ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな、一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。人民は選挙と申すマヤクに酔ってゐるぞ、選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。他に方法がないと定めてかかるから、悪魔に魅入られてゐるから判らんことになるぞ。世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ』(五葉之巻 第九帖)
例えば、人体において食後には消化器官に血液が集中したり、脳や筋肉の機能を多く使う際にはそれぞれに必要なエネルギーの分配が行われます。これと同様に、社会においても人や組織それぞれに〈徳〉の働きが異なり、その時々で目標を達成するための必要な資源やその分量も異なるため、それらを適宜分配する必要があります。
そのため、極左的に完全な平等や公平が実現されるということは、各組織を構成できなくなるため、いわば国家という人体が解体されるような状態に陥ってしまいます。かといって、極右的に特定の組織のみに資源が集中し、必要とされるところに適宜分配されなくなってしまうと、国家という人体は資源不足に陥った細胞や組織から徐々に機能不全に陥り、やがては全体が解体されてしまいます。これはどちらも避けなければならない状態です。
人体・国家・国際の内部における東木・左脳・左翼がもたらす”理知”による分配と、西金・右脳・右翼がもたらす”欲望”による集中、その双方が〈正義〉によってバランスを保つことで、一個人も社会全体も崩壊せずに成り立っていけるのではないでしょうか。
この”左”と”右”の分裂を招いている病気の根本を治療しなければ「内部分裂がない」状態にはならず、ソクラテスやプラトンが目指した〈善〉や〈正しくある〉というものが実現することはありません。病気の根本は、最も中枢の権力の集中するところにあると思われるので、国際連合の中心の常任理事国の分裂が、それに追従する国々の分裂を招き、その国々の分裂がさらにそれぞれの国に住む国民同士にも悪影響を及ぼしているのではないかと考えています。
『自由も共産も共倒れ、岩戸がひらけたのであるから元の元の元のキの道でなくては、タマ(玉)の道でなくては立ちては行かん、動かん二二(普字、富士)の仕組、ひらけて渦巻く鳴門(ナルト)(七十、成答)ぢゃ。新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらきて二度とない九十(光透)でひらく仕組』(星座之巻 第十一帖)
『右行く人、左行く人とがむるでないぞ。世界のことは皆、己の心にうつりて心だけのことより出来んのざぞ、この道理わかりたか、この道はマナカゆく道とくどう申してあること忘れるなよ』(磐戸(一八十)の巻 第七帖)
おわりに
お疲れ様でした。かなり長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
余談ですが、このブログの一番初めに投稿した「なぜ生きる」で〈徳〉や〈正義〉に似たようなことを書いていました。
個人の中で家族の中で地域の中で地球の中でその折り合いをつけて、バランスを作り上げていく。
『受け入れるべきむなしさと取り除くべきむなしさとの間にある心地の良い居場所を一つずつ見つけていくこと』
これが一つ目の生きる目的です。
なぜ生きる
「折り合いをつけて、バランスを作り上げていく」は〈正義〉で、「心地の良い居場所を一つずつ見つけていく」は〈徳〉の意味に似ていると確信しています。「考えがブレていない」や「直感的に本質を捉えていた」と、ちょっと自惚れてもいるのですが、結局は自分の意見を補強して同じことを訴えているだけという可能性も大いにあります。そのため、鵜呑みにはせず、考えるきっかけにしていただけたら幸いです。
次回はいよいよ”立立体”から、〈愛〉を含めた”霊魂の構造”の全体像と、”二通りの竜神”について考察します。
ひふみ神示 記事一覧
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- 『五つの岩戸』の物語から読み取れる僕たちの課題 – ひふみ神示 解釈2
- 2039年、一旦世界の終わり『ツキの世』。2044年、再び世界の始まり『ミロクの世』 – ひふみ神示 解釈3
- 『立立体』とは何か – ひふみ神示 解釈4
- ひふみ神示が教えてくれる?「最後の審判」と「ハルマゲドン」の正体 − ひふみ神示 解釈5
- エヴァンゲリオン × ひふみ神示。7つの繋がり – ひふみ神示 解釈 番外篇
- シン・イロハウタ – ひふみ神示 解釈 番外篇
- 霊魂の構造と二通りの竜神 – ひふみ神示 解釈6の1
- 今ここ -> 霊魂の構造と二通りの竜神 – ひふみ神示 解釈6の2
- 霊魂の構造と二通りの竜神 – ひふみ神示 解釈6の3