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『五つの岩戸』の物語から読み取れる僕たちの課題 – ひふみ神示 解釈2

ひふみ神示に登場する「五つの岩戸」の物語と、そこから読み取れる「それぞれの岩戸開き」について書いていきます。これも現時点での解釈です。鵜呑みにはせず、参考にして頂けたら幸いです。

ひふみ神示を知らない方は、前回の「ひふみ神示 解釈1」を読んで頂けると、少し分かりやすいと思います。全文は「ひふみ神示データー」というサイトに載っています。また、このサイトを参考にさせて頂きながら、「スマートフォンの表示にも対応したサイト」を作成したので、こちらもぜひ覗いてみてください。

「それぞれの岩戸開き」と「五度の岩戸閉め」

岩戸の物語で有名なのが、古事記や日本書紀で描かれる「天照大神の岩戸隠れ」です。ですが、ひふみ神示にはこのような記述があります。

『岩戸(言答)びらきと申してあるが、天は天の、地は地の、人民は人民の、動植物は動植物の、それぞれの岩戸をひらくのであるから、その立場々々によって違ふところがあるぞ、それを自分のものさしで計って、岩戸ひらきとはこんなものぞと定めてゐると、いよいよ判らん時代となってくるぞ、気つけおくぞ』(至恩の巻 第一帖)

『岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、大工は大工の岩戸、左官は左官の岩戸と、それぞれの岩戸あるから、それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ』(下つ巻 第二帖)

「それぞれの岩戸」という記述があります。「それぞれの岩戸」は「それぞれの課題」と解釈できます。そして「それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ」とも書かれています。つまり、一人ひとりにそれぞれの課題があって、それを乗り越える必要があると読み取れます。

『それぞれの岩戸開き』=『それぞれの課題を乗り越える』

では、その「課題」とはなんでしょうか?
岩戸閉めはこのように説明されています。

『岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ』(日の出の巻 第一帖)

岩戸閉めは「天照大神の岩戸隠れ」だけではなく、五回あったと書かれています。

なぜ、五回にする必要があったのでしょうか?

僕は、この物語の中に「課題」の正体や、神示に頻繁に登場する「改心」や「洗濯」の意味が隠されていると考えました。

一つ目の岩戸開き「サニワ」

『仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ』(碧玉の巻 第十帖)

仏教と一緒に仏魔が渡り来たことが最後に起こった大きな岩戸閉めとあります。おそらく仏魔というのは間違った宗教、邪教のことだと思います。

多くの邪教は「ただ信じて、拝んで、捧げていれば救われる」といった言葉で考える力を奪ったり、「信じなければ地獄に堕ちる」といった言葉で恐怖を与えて、人を支配します。そのうえで、お金や支持を集めて権力を得てしまいます。また、そういった権力を持つ宗教同士の対立や宗派対立が起こることで、争いの原因にもなってしまいます。

人間は出来るだけ悩まない楽な道を選びたいので、そういった宗教に騙されてしまい、疑わずに信じ過ぎることで行き過ぎた行動をしてしまったり、必要な悩みさえ持たなくなることで、その人の成長は止まってしまうのではないでしょうか。

他人や宗教の考え方や意見に影響を受け過ぎないようにする為に「サニワ(審神者)」が必要だと書かれています。

『世界中が霊かかりとなると申してあるのは今のことであるぞ、かかりてゐる世界自身わからなくなっているぞ、サニワせねばならん、サニワの方法書き知らすぞ。世界を、日本を、自分をサニワせねばならん。目に見へぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的となるものであるぞ、ドタンバタン、大声でどなり散らすのは下の下。神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん、高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならんぞ、下級霊は現実界と紙一重の所に住んでゐるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤(もっと)もらしく人民の目にうつるものであるぞ、高度のものは、その人民のミタマの如何(いかん)によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。また天使の霊が母体に宿り人民として生れてくる事もあるぞ、末世にはこの種の降誕人が沢山あるぞ』(竜音の巻 第三帖)

『霊の要求ぢゃと申して、そのまま受け入れてはならんぞ、よく判断した上で処理せねばならん。下級霊、動物霊の場合は酔ひどれのように箸にも棒にもかからんことを申すものぞ。殊にその霊が病気に関連をもってゐる場合は微妙であるから、よく心得なされよ。悪い企て、悪い行為ぢゃとて、直ちにキメつけてはならん、やんわりともちかけて善きに導かねばならんぞ、悪をきらふ心があってはならん、悪抱き参らせと申してあろうがな。邪道的要求を容れて一時的に病気を治すと、それに倍してブリ返すぞ、この呼吸大切』(竜音の巻 第十七帖)

『たとへ神の言葉と申しても一応は考へよ。神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。サニワせよ。薬、毒となることあると申してあらうが。馬鹿正直、まことの道 見失ふことあると申してあらうが』(黄金の巻 第二十九帖)

霊懸かりや神懸かりや奇跡的に見えることを間に受けて鵜呑みにするのではなく、その裏にある思惑を疑ってみることも重要です。何事に対しても自分の頭でしっかりと考えて、見極めや判断をする必要があるのではないでしょうか。

『身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神ぢゃ。ものの嬉しさだけではゼロぢゃ。たまの嬉しさだけでもゼロぢゃ。よく心得なされよ。死後のみ説く宗教はゼロの宗教ぢゃ。迷ふでないぞ。この世で天国に住めんもの、天国に行ける道理ないのぢゃと申してあらう。神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあらう。人間の極まるところは神であるぞ。霊人は中間の存在ぞ。人間は神への土台ぞ。この道理判るであらうが』(黒鉄の巻 第二十一帖)

『死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。奇跡を見せ、病気を直してやるのもよいのぢゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。それのみで道を説いてはならんぞ。そんなこと位でマコトのホッコン(根本)の改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。今迄のやうな宗教は亡びると申してあらうが。亡びる宗教に致して下さるなよ』(黒鉄の巻 第三十帖)※赤字は補足/解釈

『他の宗教に走ってはならんと云う宗教もそれだけのもの。判らんと申してもあまりであるぞ。同じ所に天国もあり、地獄もあり、霊界もあり、現実界もあり、過去も未来も中今にあるのぞ。同じ部屋に他の神や仏をまつってはならんと申す一方的なメクラ宗教にはメクラが集まるのぢゃ。病気が治ったり運がひらけたり、奇跡が起ったりするのみをおかげと思ってはならん』(月光の巻 第二十三帖)

死後に天国に行くために、今はただ苦しい思いだけをするのが正しいこととしたり、悪いことが起こっても、それを無理やりいいように捉えようとしたり、病気になったとしても、それが簡単に治ったとしたら、その人の成長には繋がりません。なぜそうなってしまったのか、原因は何だったのかを考えて改めない限り、また同じことを繰り返してしまいます。邪教の一番怖いところは、人から考える力や成長する力を奪ってしまうことです。

『地獄説く宗教は亡びるぞ。地獄と思ふもの、地獄つくって地獄に住むぞ。地獄はげしくなるぞ』(黄金の巻 第二十六帖)

『神に使はれるのは一通りや二通りの苦労では出来ん。宗教によるもののみ天国に行くと考へるもの、自分の教会のみ天国に通ずると思ふもの、皆 悪の眷族(けんぞく)ばかり。迷ふなよ。迷ふは慾からぢゃ。体験と理解のみ財産ぞ』(黄金の巻 第十六帖)※赤字は補足/解釈

自分達だけが天国に行って、他の人達は地獄に行くといった考え方は「自分さえ良ければいい(われよし)」から来ていると思います。そういった考え方の人達と、また他の同じような考え方の人達が対立することで、争いが生まれてしまいます。地獄を説いて「恐怖」で人を支配しようとする宗教は、間違った方向に向かってしまう可能性が高いのではないでしょうか。

『カミヒトと申すのは、神の弥栄(いやさか)のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。自分のためばかりで祈れば迷信、われよしの下の下ぞ』(春の巻 第二帖)※赤字は補足/解釈

『われよしの小さいわれよしではならん。大きなわれよし結構ぞ。ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。己を生かす為に他を殺すのもいかん。己殺して他をいかすのもいかん。大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得んことぢゃと申したり、教へたりしてゐるが、それもならんぞ。総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか』(月光の巻 第三十三帖)

「自分さえよければいい」の「小さなわれよし」ではなく、「自分も自分以外も、全てがよければいい」の「大きなわれよし」になることが重要なようです。

僕なりに解釈する「サニワ」の意味は
「他人や宗教の考え方や意見を鵜呑みにして考えるのを停止してしまうのではなく、一度取り入れて、自分の経験から得た考え方や別の視点の意見と闘わせることで見極めや判断をし、さらに新しい視点や確信を得ていくこと」です。

二つ目の岩戸開き「まつり」

『神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ』(碧玉の巻 第十帖)

ここの解釈は難しいですが、天皇を現人神として絶対的な存在としてしまったことで、天皇を中心とした階級を、一部の人間が自分勝手に作り上げてしまい、「自分より目上の人間」と「自分より目下の人間」がいるといった考え方が世の中の常識になってしまったのではないかと解釈しました。そういった世の中になることで差別や蔑みが次第に生まれていき、どんな人にも価値があって感謝すべき存在であることを、多くの人が忘れてしまったのではないでしょうか。

神示によく登場する「まつり」や「まつり合」といった言葉がここに当てはまるのではないかと考えます。

『まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ』(雨の巻 第六帖)

『何事に向っても先づ感謝せよ。ありがたいと思へ。始はマネごとでもよいぞ。結構と思へ。幸と思へ。そこに神の力 加はるぞ。道は感謝からぞ』(春の巻 第三十六帖)

『宇宙の総てはこの神の現れであり、一面であるから、その何処つかんで拝んでもよいのである。その何処つかんで、すがってもよいのであるぞ。水の流れも宗教ぞと申してあらう。総てに神の息、通ふているぞ』(春の巻 第二十二帖)

日があって、水があって、土があるから食物が育つ。生産者がいて、卸売業者がいて、運送業者がいて、小売り業者がいるから食物が作られて、運ばれて、買うことが出来て、食べることが出来る。その一つ一つの流れの間にも想像出来ないくらい沢山の存在が関わっています。これはほんの一例ですが、世の中は目に見える働き、目に見えない働きが複雑に関わって廻っています。決して誰か一人の力で廻っている訳ではありません。何が目上で何が目下、何が偉くて何が偉くないではなく、それぞれが必要で、全てが感謝すべき存在だということではないでしょうか。

『何事も神にまかせて取越し苦労するなよ、我が無くてもならず、我があってもならず、今度の御用なかなか六ヶ敷いぞ』(下つ巻 第四帖)

『神にまかせきると申しても、それは自分で最善をつくして後のことぢゃ。努力なしにまかせるのは悪まかせぢゃ。悪おまかせ多いのう。魂の財産は金を得るより数倍六ヶ敷いぞ』(春の巻 第二十六帖)

『他力の中の自力ぢゃ。ぢゃと申して、まかせきったと申して、ふところ手ならん。自力大切ぢゃ。まつりは常住坐臥にあるぞ。拝むばかりではならん』(春の巻 第二十帖)

『仕事、嘉事(よごと)と申してあろがな、仕事マツリざぞ、自分の仕事おろそかならんのざぞ、仕事せよ、仕事仕へまつれと申してあろが』(青葉の巻 第五帖)

一人ひとりが世の中の一部で、歯車の一つです。自分のやるべきことを精一杯頑張ることも「まつり」の一つだと書かれています。それ以外の部分は、周りを信じて任せきることも重要なようです。

どんなに能力がある人でも、力の及ばないところ、手の回らないところはあります。その人がやるべきことに集中出来るのは、他の人が他の部分を担ってくれているからです。お金を稼いでいるか、そうでないかで見ると、優劣は付けやすいですが、本当に優れた人間かどうかというのは、また別の見方が必要なのではないでしょうか。

『まつりまつりと、くどく申して知らしてあるが、まつり合はしさへすれば、何もかも、うれしうれしと栄える仕組で、悪も善もないのぞ、まつれば悪も善ぞ、まつらねば善もないのぞ、この道理分りたか、祭典と申して神ばかり拝んでゐるやうでは何も分らんぞ。そんな我れよしでは神の臣民とは申せんぞ、早うまつりて呉れと申すこと、よくきき分けて呉れよ。われがわれがと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証拠ぞ、鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。ここまでわけて申さばよく分かるであろう、何事も真通理(まつり)が第一ぞ』(富士の巻 第二十二帖)

『自分と云ふことが強くなるから発展ないのぢゃ。行き止まるのぢゃ。われよしとなるのぢゃ。調和が神の現れであるぞ。霊と調和せよ。肉体と調和せよ。人と調和せよ。食物、住居と調和せよ。世界と調和せよ。うれしうれしぞ。一生かかってもよいぞ。おそくないのぢゃ』(春の巻 第三十五帖)

『自分は自分一人でなく、タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、その調和をはからねばならん。それが人間の使命の最も大切なことであるぞ』(冬の巻 第一帖)

僕なりに解釈する「まつり」の意味は
「互いの存在価値を認め合って、その働きに感謝し合い、苦悩や喜びを共有すること。また、力の及ばないところ、手の回らないところは周りを信じて任せながら、自分のやるべきことを精一杯頑張ること」です。

三つ目の岩戸開き「罪と積み」

『次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ』(碧玉の巻 第十帖)

神々が素盞鳴命に総ての罪を着せて追いやってしまったとあります。この物語を現実に当てはめて考えると、「法律上で罪を犯してしまった人達」と「自分の罪を罪と思わず過ごしている人達」との関係を連想します。

犯罪者の多くは、置かれた環境に大きく影響を受けて、罪を犯す心理状態にまで追いつめられてしまうのだと思います。共通の敵を作って皆でいじめたり、自分より劣った人を見下したり、価値観の違う人を排除しようとしたり、僕たちは自分が抱えているストレスを誰かにぶつけることで楽になろうとします。しかし、それをぶつけられた人は、またそのストレスを誰かにぶつけることで楽になろうとします。僕たちが犯した小さな罪は少しずつ大きくなっていき、最終的に特定の人達のところに辿り着きます。そういった人達は、そのストレスに耐えきれず、社会からはじき出されて、疎外感を抱きます。そして、自分がそうされてきたのと同様に、他人を顧みず、罪を犯してしまうのではないでしょうか。重大な犯罪の多くは、犯罪者本人やその家族だけが悪いのではなく、社会全体の価値観や考え方の歪みが現れたものではないかと考えています。

『素盞鳴の大神様 罪穢れ祓ひて隠れて御座るのざぞ』(日月の巻 第三十七帖)

多くの人から生まれた罪穢れを背負い、刑務所に服役して罪を償う。犯罪者のその姿は、この物語で描かれる素盞鳴命の姿に重なる部分があるように感じます。

『今度は先づ心の建直しぢゃ、どうしたら建直るかと云ふこと、この神示読んで覚りて下されよ、今度は悪をのうにするのぢゃ、のうにするは善で抱き参らすことぢゃ、なくすることでないぞ、亡ぼすことでないぞ、このところが肝腎のところぢゃから、よく心にしめて居りて下されよ』(海の巻 第七帖)

『人民をほめること よいことぢゃ。ほめて、その非をさとらせよ。罪ゆるすことぢゃ』(春の巻 第八帖)

『お詑びすれば誰によらん、許してよき方に廻してやるぞ、口先ばかりでなく心からのお詑び結構いたしくれよ』(青葉の巻 第十四帖)

もちろん法律上で罪を犯してしまった人にも原因はあり、非はあります。人を傷つけたり、苦しめたり、悲しませた罪は、償うことで、はじめて許されると思います。

でも、彼らを裁くだけでは犯罪はなくなりません。

『人民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキ(心)が泥棒つくるのぢゃ』(光の巻 第三帖)※赤字は補足/解釈

『戦恐れてゐるが臣民の戦位、何が恐いのぞ、それより己の心に巣くうてる悪のみたまが恐いぞ』(富士の巻 第七帖)

他人を差別したり、蔑んだり、いじめたり、他人に苛立ちをぶつけたりすることで犯罪の小さな原因になっていないか。一人ひとりが省みて、改める必要があるのではないかと思います。

『罪を憎んでその人を憎まずとは悪のやり方、神のやり方はその罪をも憎まず』(黄金の巻 第五十三帖)

『神は喜びであるから、人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へてゐるが、それは段階の低い教であるぞ。大道でないぞ。理屈のつくり出した神であるぞ。大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。今迄の教は今迄の教』(秋の巻 第一帖)

『【智の中に悪をとり入れるゆとりの出来んやうではマコト成就せんぞ。智の中には総てを取入れて理解出来るやうに】なってゐるのであるぞ。愛の中に悪入れてはならんぞ』(黒鉄の巻 第十七帖)

自分自身が悪い考え方や行いに染まってはいけないですが、悪いことをしてしまった人達の心情を知ろうとすることは大切だということではないでしょうか。

「人間のする事とは思えない」と言われるような事件の100%は人間のした事です。どんなに残忍な事件であったとしても、それをいつまでも「人間のする事とは思えない」で片付けてしまっては何の進歩もありません。

犯罪者は何故、犯罪者になるのか。罪を犯す可能性は、きっと誰にでもあります。育った環境が少しでも違えば、もしかしたら僕も重大な罪を犯していたかもしれません。犯罪者がどういった経緯で罪を犯してしまったのか。それを知ることで、自分自身や身近な人が罪を犯さないようにする為に、何をすべきで何をすべきでないのかが見えてくると思います。

補足記事:

以前に書いたものですが、こちらも参考になるかもしれません。もしよければ、読んでみて下さい。

いじめっ子が晒してしまう9つの恥
いじめはなぜいけないのか。いじめは無くならなくてもいい。

四つ目の岩戸開き「それぞれの岩戸開き」

『次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にまします(いらっしゃる)のぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ』(碧玉の巻 第十帖)※赤字は補足/解釈

「天照大神の岩戸隠れ」
” 誓約で身の潔白を証明した建速須佐之男命は、高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働いた。他の神は天照大神に苦情をいうが、天照大神は「考えがあってのことなのだ」とスサノヲをかばった。しかし、天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。 ” Wikipediaより

勝手な解釈ではありますが、「見畏みて(恐れ多いと思って)」ということは、天照大神は怒りや恐怖が直接の原因で岩戸に閉じこもってしまったのではなく、自分の考えや判断が信じられなくなり、閉じこもってしまったのではないでしょうか。皆をまとめることが本当に出来るのか、その立場に相応しい存在なのかが判らなくなり、現代でいうところの引きこもりのような状態になってしまったのではないかと考えました。

『だました岩戸からはだました神が出て、ウソの世となったのぢゃ、この道理判るであろう、ニセ神やら、だました神やら、次々に五度の岩戸閉めと申してあろが』(海の巻 第十一帖)

『ダマシタ岩戸からはダマシタ神お出でましぞ、と申してくどう知らしてあろがな、ダマシて無理に引張り出して無理するのが無理ぞと申すのぞ、無理はヤミとなるのざぞ、それでウソの世ヤミの世となって、続いてこの世の苦しみとなって来たのざぞ』(青葉の巻 第十四帖)

そして、その後に神々が騙して、無理やりに天照大神を引っ張り出してしまったことも、闇の世となった原因と書かれています。

『光は中からぢゃ、岩戸は中からひらかれるのぢゃ』(紫金の巻 第八帖)

この物語から読み取れるのは、一人ひとりが自分自身の価値や役割を思い出すということではないかと思います。

『その人によってふさわしい行がある。誰でも同じでない。一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。身につかんもの、身につかん行は、いくらしても何もならん。いらん苦労はいらんと申してあろう』(春の巻 第五十帖)

「その人によってふさわしい行がある」という記述があります。他の岩戸(課題)は目指すところが共通なように感じますが、この岩戸は一人ひとり違ったものと解釈しています。

『岩戸開くと申しても、それぞれの岩戸あるぞ、大工は大工の岩戸、左官は左官の岩戸と、それぞれの岩戸あるから、それぞれ身魂相当の岩戸開いて呉れよ』(下つ巻 第二帖)

この言葉は、ここに当てはまるのではないでしょうか。

「まつり」の内容と重なる部分もありますが、一人ひとりが世の中の歯車の一つで、必要な存在です。意味を持って生まれてきた存在だと自覚して、何をするべきかに気付いて、居るべき人が居るべきところに居ることで、世の中はさらに良くなっていくのではないかと思います。

『使命がいのち。上から、神から命ぜられたことがいのちぞ。使命はつくられた時に与えられる。使命なくてものは生れんぞ。自分の使命は内にききつつ外にきけよ。使命果たすがよろこびぞ。使命果たすには生命がけでなくてはならん。生命ぢゃからのう。努力した上にもせなならんぞ。努力には苦もあるぞ。苦のない努力ないぞ。右を動かせば左もうごくぞ。果たせば苦は楽。果たさねば楽も苦。重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのぢゃ。神が主であるぞ』(春の巻 第十八帖)

『弥栄と云ふことは歩み一歩づつ喜び増して行くことぞ。喜びの裏の苦に捉はれるから判らんことに苦しむのぢゃ。苦と楽 共に見てよと申してあらう。偶然の真理、早う悟れよ』(黄金の巻 第九十七帖)

目標を持って何かを成し遂げようとするのは、恐怖や不安もあり、悩みや苦しみもあります。でも、それがあるからこそ、喜びは大きくなるのではないでしょうか。

『どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるぞ。だから生きているのぢゃ。そのはたらき御用忘れるから苦しむ。行き詰る。御用忘れるから亡びるのぢゃ。個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用がある。御用大切、御用結構。日本が変って世界となったのぢゃ。自分の為ばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。悪の祈りには悪の神。善の祈りには善の神。始めの間は中々判らんものぢゃ。神様のなされるマネから始めて下されよ』(春の巻 第十四帖)

『燈台もとへ来て、明るうなると思ひ違ひ、もとへ来てあかりとなれよ。光となれよ』(黄金の巻 第九帖)

身体や心の病気などで働けなかったり、生活に補助が必要な人もいます。現在の価値観からすれば、価値がない存在と見る人もいるかもしれませんが、そういった人達には周りの人の考え方や価値観に影響を与えるという存在価値があるのではないかと思っています。また、その人を支えて感謝されることで、周りの人も存在意義を得られている部分もあると思います。ちょっとクサい言い方ではありますが、天照大神が太陽の神様であるように、誰もが誰かの存在を照らす、太陽のような価値を持っているのではないでしょうか。

補足記事:

人をバカにしたくなった時に考えるべき5つのこと
本当に理想とする自分の姿は人生最後の日に存在するのかもしれない

五つ目の岩戸開き「中行く道」

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな』(碧玉の巻 第十帖)

『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ』(至恩の巻 第八帖)

『千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ』(至恩の巻 第九帖)

伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が離れ離れになってしまい、一方的になってしまったことと、仲違いしてしまったことが岩戸閉めの原因と書かれています。

『道は三つと申してあろう。三とは参であるぞ。3(スリー)でないぞと申してあろう。無限であるぞ。平面的に申せば右と左とだけでないぞ。その右の外に、又 左の外に道でなき道あるぞ。それを善の外道、悪の外道と申す。外道多いのう。中の中には中の道あるぞ』(春の巻 第三十九帖)

『この道は中行く道ぞ、左も右りも偏ってはならんぞ』(地つ巻 第四帖)

この物語からは、それぞれの対立関係にある三つ目の道、「中行く道」を見つける努力が必要だと読み取れます。

『左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ』(月光の巻 第五十四帖)

『三が道ぞと知らしてあろう、自他の境界つくるでないぞ、おのづから自他の別と和が生れて お互に折り重なって栄へるのぢゃ、世界一家への歩み方、やり方、間違へるでないぞ』(極めの巻 第一帖)

『いくさは善にもあり、悪にもあり、右には右の、左には左の、上には上の、下には下の、中には中の、外には外のいくさあるぞ。新しき御代が到来しても いくさはなくならん。いくさも歩みぞ。弥栄ぞ。ぢゃと申して今のような外道のいくさでないぞ。人殺し、生命殺すようないくさは外道。やればやる程はげしくなるぞ。正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ。今の人民いくさと申せば、人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。天国へのいくさもあるぞ。幽界へのいくさもあるぞ。人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、人殺す外道の道、それではならんのう。外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神のみ旨であるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ。新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん。外道の武器すてよ。外道の武器生かして、活かして、いのちを生かす弥栄の武器とせよ。かへられるでないか』(春の巻 第四十二帖)

宗教と宗教、国家と国家、企業と企業、地域と地域、個人と個人、自分と自分、無数にある関係の中に対立があります。自分のいる立場からすれば、相反する考え方や価値観を持つ存在は邪魔だと感じます。一方を善とすれば、もう一方は悪です。相容れない存在として排除しようとすれば、神示でいうところの「外道のいくさ」が始まります。戦争はおそらく、その極みです。

『気の合う者のみの和は和ではない。色とりどりの組合せ、ねり合せこそ花さくぞ。総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構。中々に合わんと申すなれど、一つ家族でないか。心得なされよ。夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ』(月光の巻 第九帖)

『愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。生み出すのぢゃ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ』(春の巻 第二十六帖)

自分とは違った立場の考え方や価値観や意見があるからこそ気付きがあり、新しい発見があり、そこにもまた成長があります。より多くを自分の中に取り入れることで、感じ取れる世界や受け容れる器が広がっていくのではないでしょうか。

夫婦関係やスポーツや学問のように、気付き合い、競い合い、切磋琢磨し合うことで互いに成長していけるようなものを「正道のいくさ」と言うのではないかと思います。

『人間を幸福にするのは心の向け方一つであるぞ。人間はいつも善と悪との中にゐるのであるから、善のみと云ふこともなく悪のみと云ふこともない。内が神に居りて外が人に和し、内が霊に居り外が体に和せば、それでよいのぢゃ。其処に喜び生れるのぢゃ。神から出た教なら、他の教とも協力して共に進まねばならん。教派や教義に囚はれるは邪の教。豚に真珠となるなよ。天国の意志は人間の喜びの中に入り、幽界の意志は悲しみの中に入る』(黒鉄の巻 第十五帖)

『禁慾は神の御旨でないぞ。慾を浄化して、生めよ。産めよ。今の人民、慾の聖化を忘れて御座るぞ。慾は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ。慾を導けよ。自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、霊を知り、宇宙の意志を知り、神にとけ入ったならば、無限大の身体、無限の生命となるぞ。マコトの嬉し嬉しのよろこびとなるのであるぞ』(黒鉄の巻 第三十四帖)

『そなたの心の中にゐる獣(ケダモノ)、言向けねばならん。善きに導かねばならん。一生かかってもよいぞ。それが天国に行く鍵であるぞ。マコトの改心であるぞ。智慧と、愛が主の座に居らねばならん』(黄金の巻 第八十六帖)

贅沢をしたいという気持ちや、誰かに勝ちたいといった気持ちは、ほとんどの人が持っていると思います。そういった欲があるからこそ、苦悩や喜びがあり、成長や成功や創造があります。それが個人の中の「悪」の役目です。でも、間違った方向にいってしまうと、他人を騙してでもお金を得ようとしたり、他人を蹴落としてでも成功を掴もうとしてしまいます。前者は「正道の悪」で、後者は「外道の悪」と解釈しています。

また、逆にそういった欲を全て必要のないものとして、完全に排除しようとするのが「外道の善」で、自分の欲や悪いことを望んでしまうところを認めて、それをうまく諭しながら「悪」が道を外さないように導くのが、個人の中の 「善」の役目、「正道の善」ではないかと思います。

『善と悪と取違ひ申してあらうがな、悪も善もないと申してあらうがな、和すが善ざぞ、乱すが悪ざぞ、働くには乱すこともあるぞ、働かねば育てては行けんなり』(青葉の巻 第十一帖)

『調和乱すが悪ぞ。人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。霊も五、体も五と申してあらう。ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。神は主であり、人間は従であるぞ。五と五と同じであると申してあろう。差別則平等と申してあらう。取り違い禁物ぞ』(冬の巻 第一帖)

『和合した姿を善と申すのぢゃ。今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。地獄ないこと合点か。悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。合点ぢゃナア』(白銀の巻 第一帖)

対立はどこにでも、どんな関係にもあります。その中で互いが納得出来る道や互いに成長出来る道を探す努力が必要だということではないでしょうか。

補足記事:

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