BLOG

霊魂の構造と二通りの竜神 – ひふみ神示 解釈6の3

前々回前回の続きです。今回はいよいよ”立立体”から”霊魂の構造”の全体像と”二通りの竜神”の意味について考察します。とはいっても、前回もそうでしたが、考えがそこまではっきりとしていない部分や言葉にしての表現がしづらい部分もあるので、説明不足だったり冗長な文章になってしまっていたらごめんなさい。今回もかなりややこしくぶっ飛んだ話ですが、少しずつ読み進めながら最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。

立立体と霊魂の構造

立立体とは何か

立立体の形は、以前の投稿「『立立体』とは何か – ひふみ神示 解釈4」での解釈と変わっていません。簡単に説明すると、二つの四角錐が重なって交わった形です。

これを単純化して横からみると、「六芒星」のような形になります。今度は真上からみると、頂点が八つ、重なった部分が八つで、合わせると「菊の御紋」と同じ十六になります。

この形は”二つの霊魂が結合したもの”を表現していると考察しています。

『今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根元のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国とユツタ(ユダヤ)神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光りて輝く御代ぞ楽しけれく。悪い者殺してしまふて よい者ばかりにすれば、よき世が来るとでも思ふてゐるのか、肉体いくら殺しても魂迄は、人民の力では何うにもならんであろがな。元の霊(たま)まで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ、元の霊(たま)に改心させず肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それ位 判って居らうが、判りて居り乍ら他に道ないと、仕方ないと手つけずにゐるが、悪に魅入られてゐるのぢゃぞ、悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ、霊(たま)から改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、天地(アメツチ)ぢゃとくどう知らしてあろが。何んなよいこと喜ばして知らしても、聞かせても、今の臣民人民 中々云ふこときかんものぢゃぞ。この道にゆかりある者だけで型出せよ、カタでよいのぢゃぞ』(一火リの巻(ヒカリの巻) 第六帖)

内的な霊魂と外的な霊魂

前回まで”霊魂の構造”を考察してきましたが、それは一つの霊魂についてでした。一つの霊魂のみでは様々な関係は生じません。二つ以上の霊魂が相互作用することによって関係が生じます。

ある霊魂を中心にみれば、そこには様々な関係があり、関わる対象によって霊魂の状態は変化します。例えば、家庭内では親に威圧的な態度をとる青年が、友人関係では隷属的な態度という場合や、その逆のパターンもあります。これは〈気概の部分〉や〈寛容の部分〉が関係によって態度を変えることを意味しています。

また、霊魂の結びつきには様々な段階があり、”内(主)”と”外(客)”の認識はどの段階を意識するかによって変化します。例えば、「自分の家族」を”内”とみれば「他人の家族」は”外”とみえますし、「自国」を”内”とみれば「他国」は”外”とみえます。このように意識する関係において〈内的な霊魂〉と〈外的な霊魂〉が存在すると思われます。

『自分の衣は自分の外側であるぞ。自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、家にゐる自分を霊とすれば土地は体であるぞ。更に祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。人類は横の自分、動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。切りはなすこと出来ん』(冬の巻 第一帖)

霊魂に内的なものと外的なものがあるとすれば、それぞれの部分(四魂)に関しても内的なものと外的なものがあると思われます。例えば、「ダラダラと怠惰に過ごしたい」という〈内的な欲望〉があったとして、それを〈内的な理知〉が決めたルールに従って、〈内的な気概〉が自己を律する場合もあると思いますが、それだけではなく、「だらしない人と見られたくない」といった〈外的な理知〉や、「あの人に嫌われたくない」といった〈外的な欲望〉によって自己の行動を許容しない場合もあると思います。このように、霊魂のそれぞれの部分には、自己自身との関係におけるものと、自己と他者との関係におけるものとで違った働きがあると推察できます。

霊魂のそれぞれの部分とは〈理知的部分〉、〈欲望的部分〉、〈気概の部分〉、〈寛容の部分〉のことです。

  • 理知的部分 – 理性や知性など物事を分別したり理解する部分。(中庸)自省・知慮など…(超過)頑固・狡猾など…(不足)軽薄・愚昧など…
  • 欲望的部分 – 生理的欲求や利得欲など欲望全般を生み出す部分。(中庸)節制・希望など…(超過)放埒・強欲など…(不足)無欲・鬱屈など…
  • 気概の部分 – 意見を伝えたり、拒否するなどの能動的な部分。(中庸)勇敢・忍耐など…(超過)無謀・憤怒など…(不足)臆病・虚弱など…
  • 寛容の部分 – 意見を聞いたり、承諾するなどの受動的な部分。(中庸)傾聴・許容など…(超過)放任・隷属など…(不足)無視・断絶など…
  • 魂の玉座(神の道) – 魂の各部分が超過や不足の状態に陥らないように中道を保つ部分。神に繋がる道。

次の記述にあるように、自己と他者との関係のみならず一個人の中にも複数の霊魂があり、その霊魂同士の関係において葛藤や対話があり、折り合いをつけることで和合していきます。生を望む自分と死を望む自分が共存できるのはこのためです。

『自分と自分と和合せよと申してあるが、肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。更に、又奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神であるぞ』(月光の巻 第二十五帖)

こういった〈内的な霊魂〉と〈外的な霊魂〉など霊魂同士の関係が生じるのは、〈愛〉によるものだと考えています。ちなみに、この霊魂同士の関係によって「五行説」に”陰”と”陽”が加わり、「陰陽五行説」となります。

愛とは何か

〈愛〉とは「二つ以上の霊魂が結合した状態である」と考えています。一般的な捉え方とは違いますが、関係が生じるところには僅かであっても必ず〈愛〉が存在していると考えます。そして、霊魂同士の結合の状態が一つの霊魂として認識されるため、ソクラテスやプラトンが考えるように国家などの個人の集合体に関しても霊魂が存在し、その巨視的な霊魂の立場でも〈愛〉による関係があり、〈徳〉や〈正義〉による相互作用も存在していると考えます。自国と他国の関係など、様々な関係に意識を向けることができるのはこのためです。

国家や企業などは明確な物質としては存在しないため、霊魂によってその本質を捉えていると考えられますが、物質的な存在に関しても同様であると思われます。例えば、即席のストリートサッカーでは、その場にある物や環境を利用してサッカーゴールに見立てたりする場合がありますが、それらは元々ストリートサッカーのためにそこにあるわけではない上に、公式な文書(紙やインクといった物質)で規定せずとも即席のルールを仲間同士で共有することができます。これはサッカーゴールというものの本質を物質的に捉えているのではなく、霊魂として捉えていて、〈徳〉によるそのもの特有の”はたらき”や、その”はたらき”が正しく機能するかどうかを〈正義〉によって判断しているのではないかと考えられます(例えば、風に飛ばされやすいティッシュを使ってゴールに見立てることは難しい、など)。

このように、サッカーゴールやベンチやぬいぐるみなど全ての物に霊魂が存在するならば、人や動植物に対してのみならず、これら無生物とされる”モノ”に対する〈愛〉も存在するはずです。例えば、社会に広く役立っている電車などに”愛着”を持ちやすいのは、その霊魂の〈徳〉の”はたらき”が比較的はっきりと分かるからなのかもしれません。ですが、モノに対する〈愛〉では心情の共有を感じることは難しいため、人同士の〈愛〉以上にはならないように思われます。また、モノそのものに対して直接”愛着”を持つ場合もあれば、そのモノを通して過去の記憶などに”愛着”や”執着”を持っている場合もあり、それらが混ざり合っている場合もあるのではないでしょうか。

無生物の霊魂について先に述べましたが、もちろん動植物のような存在にも霊魂はあると考えます。そのため、動植物にも〈徳〉による独自の”はたらき”があり、縄張りに「受け入れる・受け入れない」などの〈正義〉による判断もできます。無生物よりも生物の方が人間に近く、心情の共有を感じやすいため、〈愛〉も人同士のそれとより近いものになると思われます。

『同じ神の子でも本家と分家とあるぞ。本家は人間ぢゃ。分家は動植物ぢゃ。本家と分家は神の前では同じであるが、位置をかへると同じでないぞ』(秋の巻 第一帖)

関係が生じるところには必ず〈愛〉が生じていると述べましたが、〈愛〉の深さには様々な段階があり、道端ですれ違う際に会釈する程度の〈浅い愛〉もあれば、霊魂が一体となり相手の喜びがそのまま自分の喜びとなるような〈深い愛〉もあります。

『愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。生み出すのぢゃ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ』(春の巻 第二十六帖)

前回、アドルフ・ヒットラーは母親のクララ・ヒットラーからの〈愛〉が希薄であったと述べましたが、希薄ではあったものの完全に〈愛〉がなかったわけではないと捉えています。もし、完全に愛がなかった場合には、〈寛容の部分〉の”不足”によって存在が”無視”された状態になるため食事も与えられず、アドルフは成長することなく餓死してしまいます。

イギリスの哲学者 バートランド・ラッセルは、”愛情”について著書『幸福論』で次のように述べていて、〈深い愛〉はこの考え方とほとんど同じです。

二人の人間がお互いに対して真の相互的関心をいだいているという意味での愛情⸺つまり、お互いを幸福のための手段として見るだけではなく、むしろ、一つの幸福を共有する結合体だと感じる愛情は、真の幸福の最も重要な要素の一つである。

バートランド・ラッセル. ラッセル 幸福論. 安藤貞雄 訳. 岩波書店. 1991(2022). p.203

ひふみ神示には「自己愛をひろげて、大きくして真愛と合致させねばならん」とあります。

『他を愛するは真愛ぞ。己のみ愛するのは自己愛ぞ。自己愛を排してはならん。自己愛をひろげて、大きくして真愛と合致させねばならん。そこに新しき理(ミチ)ひらけるのであるぞ。自己愛を悪魔ととくは悪魔ぞ。無き悪魔つくり、生み出すでないぞ。一段昇らねば判らん』(秋の巻 第六帖)

“恋”は〈愛〉の一種ではありますが、まだ浅い段階の「自己愛」に近く、主に自分のために相手の容姿や才能や財力などの〈徳〉に対して好意を抱いている状態だと思われます。ですが、〈徳〉は時間の経過や状況によっても変化するものです。〈徳〉のみではなく相手の存在そのものを〈愛〉し、〈深い愛〉によって霊魂が結合することで、互いの感情を共有するように自他が一体となった「自己愛 = 真愛」となれるのかもしれません。

バートランド・ラッセルは、「自己愛」的な〈愛〉についても述べています。

この愛情においては、一方が他方の生命力を吸い取ってしまい、一方は他方の与えるものを受け取るくせに、お返しとしてほとんど何も与えない。活力にみちた人たちの一部は、この吸血型に属する。彼らは、次々と犠牲者から生命力をしぼり取る。ところが、彼らが栄えて、おもしろ味のある人間になるのに引き替え、食い物にされた人びとは青ざめて、影のうすい、つまらない人間になってしまう。この種の人たちは、他の人をおのれの目的のための手段として利用し、その人たち自身が目的だとは決して考えない。根本的には、彼らは、目下自分が愛していると思っている人たちに興味を持っていないのである。彼らは、おのれの活動に対する刺激⸺それも、おそらくはまったく非人間的な種類の刺激⸺に興味を持っているにすぎない。

バートランド・ラッセル. ラッセル 幸福論. 安藤貞雄 訳. 岩波書店. 1991(2022). p.202

“恋愛”は互いの〈徳〉への関心から入り、〈気概の部分〉によって接近し、〈寛容の部分〉によって相手を”深く受け入れていく”ことになると思われますが、だからといってすべてを受け入れなければならないということではありません。親しい間柄にも〈正義〉はあり、むしろ〈深い愛〉だからこそ”拒否”をしたり”怒り”を持つといった場合もあります。

互いに向き合い続けることで〈徳〉と〈正義〉の揺れ動きは積み重なり、二人が一体となって他の対象に向き合うことで〈愛〉は深まっていき、その歴史が曲がりくねった「道」のようになっていくのかもしれません。

『愛は愛のみではよろこびでないぞと申してあろう。真は真のみでは喜びでないと申してあろうが。愛と真と合一し、するところに、陰と陽と合一、弥栄したところによろこびあるのぢゃぞ』(冬の巻 第一帖)

徳、正義、愛と三つの十字

前回、下の図を使って”霊魂の構造”は〈徳の軸〉と〈正義の軸〉が交差してXY座標のようになっていると考察しましたが、さらに霊魂同士の結合による〈愛の軸〉が加わって三次元のXYZ座標のようになります。それが冒頭で図示した”立立体”の形であると考察しています。そして、それぞれの軸が〈魂の玉座(神の道) = 中土 = 直霊(直日)〉を中心にXY, XZ, YZと三つの十字で交わり、霊魂同士の間で揺れ動くことで同一関係における様々な状態として表れます。

ひふみ神示には、「道とは三つの道が一つになる」とあります。

『道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ、終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ、富士、都となるのざぞ、幽界(がいこく)行きは外国行きぞ』(地(九二)つ巻 第十一帖)

前回も述べましたが「三つの道」とは、〈徳〉が〈理知的部分〉と〈欲望的部分〉の中道で歪みなく、〈正義〉も〈気概の部分〉と〈寛容の部分〉の中道で歪みなく、〈愛〉も自己や自国など〈内的な霊魂〉と他者や他国など〈外的な霊魂〉の関係において中道で歪みのない場合のことであり、それは三つの軸が「道徳」「道義」「神の道(真道)」となり中心点(原点)で結ばれている状態のことであると解釈しています。

次の記述にも「一であり、二であり、三であらうがな。三が道と申してあろう」とあり、最後に「なくてはならん」とありますが、この「」は中心点(原点)での結びを意味していると思われます。

『陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考へてゐるなれど、タカミムスヒとカミムスヒと考へてゐるなれど、別のミナカヌシ、現はれるぞ。、卍、、よく見て下されよ。一であり、二であり、三であらうがな。三が道と申してあろう。陰陽二元でないぞ。三元ぞ。三つであるぞ。なくてはならん』(白銀の巻 第一帖)

また、「陰陽二元でないぞ。三元ぞ」ともあるので、「三つの道」には他にも、男女の交わりによって子どもが生まれるように、一の霊魂と二の霊魂が結合することによって新しい三つ目の霊魂が生まれるという意味もあるように思われます。

『悪とはカゲのことであるぞ。斜めに光を頂くから影出来るのぢゃ。影は主人でないぞ。絶対は何と申しても絶対ぞ。相対から神を求めると、相対の神が顕はれるぞ。相対で神の道に導くこと中々ぢゃ。必ず後戻り、判りはせんぞ』(黒鉄の巻 第二十四帖)

『立体の道を早うさとりなされよ。【正中の大道】あるのであるぞ。左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ。原因の世界に入らねばならん。平面より見れば相対あるなれど、立体に入り更に複立体、複々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ。相対では争ひぢゃ。いくさぢゃ。真の世界平和は今のやり方、考へ方では成就せんぞ。三千世界和平から出発せねばならんぞ』(月光の巻 第五十四帖)

「唯心論 vs 唯物論」、「善 vs 悪」、「理知 vs 欲望」、「左翼 vs 右翼」など相対的な二元論で捉えてしまうと、相対する考えを受け入れられず衝突して、分裂の原因となってしまいますが、三元的な考え方で互いに折り合いをつけながら乗り越えていくことで、新たな「三つ目の道」へと進めるのではないでしょうか。

『心とは神民の申す心でないぞ、身魂とは神民の申す身魂でないぞ、身たまとは身と魂と一つになってゐるもの云ふぞ、神の神民身と魂のわけ隔てないぞ、身は魂、魂は身ぞ、外国は身ばかりの所あり魂ばかりの所あり、神は身魂の別ないぞ、この事分りたら神の仕組みがぼつぼつ分るぞ』(上つ巻 第十四帖)

「一神教 vs 多神教」という二元論も乗り越えるべきものです。これは仏教の「一切即一」にも繋がる考え方だと思います。

『太一二(オーヒツキ)大神としてのこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神様の名ぢゃ。無限であるぞ。このほう一柱であるが無限柱ぞ。総てが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。汎神(ハンシン)ぢゃ。総てが神ぢゃ。喜びぢゃ。始めから全体を掴もうとしても、それは無理と申すもの。手でも足でもよい、何処でもよいから掴める所からつかんで御座れよ。だんだん判ってくるぞ。全体をつかむには全体と同じにならねばならん』(春の巻 第二十一帖)

ひふみ神示には”幽界”について次のような記述があり、「幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢゃ。地獄でないぞ」や「人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、それが再び霊界にうつる。それが幽界と申してあらう」と述べられています。

『天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気が又天に反影するのであるが、まだまだ地には凸凹あるから、気が天にかへらずに横にそれることあるぞ。その横の気の世界を幽界と申すのぢゃ。幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢゃ。地獄でないぞ』(白銀の巻 第一帖)

『外道とは上からの光が一度人民界にうつり、人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、それが再び霊界にうつる。それが幽界と申してあらう。その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのざ。善にも外道あるぞ。心得よ』(春の巻 第四十一帖)

記述にある「凸凹」とは、霊魂の〈徳〉と〈正義〉において各部分が”超過”や”不足”に陥り、さらに〈愛〉において他者を蔑ろにするなど「自己愛」的に陥ることで、各軸が歪んだまま固定化されている状態であると解釈しています。

自己中心的な欲望を脅迫や暴力によって他者に無理強いし続けるなど、自己や身内のみにとっての〈善〉の位置に固執し影を生み出し続けることで闇となり、曲げられた気が幽界にうつり、それがまた人民界にうつって「外道の善」となり、またはそれを打ち壊すための「外道の悪」となり、その繰り返しによって闇は深くなっていくのかもしれません。

『幽界と霊線つなぐと自己愛となり、天国と霊線つなげば真愛と現れるぞ。よろこびも二つあるぞ。三つあるぞ。大歓喜は一つなれど、次の段階では二つとなるのであるぞ』(秋の巻 第五帖)

『われよしの小さいわれよしではならん。大きなわれよし結構ぞ。ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。己を生かす為に他を殺すのもいかん。己殺して他をいかすのもいかん。大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得んことぢゃと申したり、教へたりしてゐるが、それもならんぞ。総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか。何故に神示を読まぬのぢゃ』(月光の巻 第三十三帖)

「自分(たち)さえよければいい」といった気持ちや、「自分を犠牲にしてでも他人さえ良ければいい」といった気持ちでもなく、「自分や身内だけでなく、皆が良ければいい」といった気持ちで自己にも他者にも偏ることなく一つに調和するような「自己愛 = 真愛 = 大きなわれよし」を、様々な関係の間で揺れ動きながらも目指し続けることが必要なのだと思います。

『今までは悪の世でありたから、己殺して他人助けることは、此の上もない天の一番の教といたしてゐたが、それは悪の天の教であるぞ。己を活かし他人(ひと)も活かすのが天の道ざぞ、神の御心ぞ。他人殺して己助かるも悪ぞ、己殺して他人助けるも悪ぞ、神無きものにして人民生きるも悪ぞ。神ばかり大切にして人民放っておくのも悪ぞ。神人ともにと申してあろが。神は人に依り神となり、人は神によって人となるのざぞ。まことの神のおん心わかりたか』(夜明けの巻 第一帖)

(ウム)よく見て下されよ。愛はそのまま愛でないぞ。真はそのまま真でないぞ。善はナマでは善でないぞ。智はナマでは智でないぞ。入れて、結んで解けてヨロコビとなるのざ。ヨロコビ生命ぞ。宇宙の総て生命であるぞ』(白銀の巻 第二帖)

立立体と二通りの竜神

微視的な流れと巨視的な流れ

ひふみ神示には「地からの竜神は進化して行く」や「天からの竜神は退化して行く」とあり、「この二つの竜神が結ばれて人間となる」とあります。

『竜神と申してゐるが竜神にも二通りあるぞ。地からの竜神は進化して行くのであるぞ。進化をうそざと思ふは神様迷信ぞ。一方、天からの竜神は退化して行くのであるぞ。この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。人間は土でつくって、神の気入れてつくったのざと申してあらうがな』(白銀の巻 第二帖)

「地からの竜神」とは微視的で部分的な構造物から巨視的で全体的な構造物への物質的な進化の”流れ”であり、「天からの竜神」とは巨視的で全体的な構造概念(想念)から微視的で部分的な構造概念(想念)への霊魂的な退化の”流れ”のことと解釈しています。

この神様からの双方の”流れ”の現われが「二通りの竜神」であり、各段階において物質と霊魂が結合することで「神の道」となり万物が生成されていくと考えています。これは、老子の「道(タオ)が万物を生み出す」という考え方とも一致しています。

『祈りとは意が乗ることぞ。霊の霊と霊と体と合流して一つの生命となることぞ。実力であるぞ。想念は魂。魂は霊であり、霊の世界に属し、霊に生きるのであるぞ。ものは霊につけられたもの、霊の霊は、霊につけられたものであるぞ。ものにはものの生命しかない。真の生命は霊であるぞ。生命のもとの喜びは霊の霊であるぞ。霊の霊が主ざと申してあらう。奥の奥の奥のは大神に通ずるであるぞ。喜びであるぞ。ある為に人間となり、人間なるが故に神となり、神なるが故に喜びであるぞ。他のいきものにもはあれど、外のであるぞ』(黒鉄の巻 第三十二帖)

そして、さらにその双方の竜神の”流れ”は最終的に「想念の最外部、最底部をなすものである」現実界の人間で結ばれた後、「人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影する」ものと解釈できます。

『神と霊は一つであって、幽と現、合せて三ぞ。この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない。神界から真直ぐに感応する想念を正流と申す。幽界を経て又幽界より来る想念を外流と申すぞ。人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから肉体的動きの以前に於て霊的動きが必ずあるのであるぞ。故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ』(冬の巻 第一帖)

『物質界は、霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。人間は霊界より動かされるが、又 人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな』(冬の巻 第一帖)

この世界の存在はすべて偶発的な現象の結果だという考え方もありますが、ある現象が発生するまでの過程は偶発的だったとしても、その”条件”やそれによって生成されるものの”性質(本質)”までもが偶発的だとしたら困ります。例えば、水素と酸素が結合し水分子となるための生成条件がその都度変わってしまったり、結合したと思ったら硫酸みたいな性質だったなんてことがあるとしたら学問は成立しません。

このあらゆる存在が必然的に生成されるための”条件”や”性質(本質)”に関する情報は、原子を構成する素粒子やその生成の元となったエネルギーにあらかじめ全て内在されているのではなく、内在されていたとしても一部の情報のみで、さらに各結合の段階において相応しい霊魂が外部から結びつくことによって新しい”条件”や”性質(本質)”に関する情報が獲得されるのではないかと考えています。この外部からの情報を伴った霊魂の伝達は、光や音のエネルギーなどが担っているのではないかと推察しています(この辺はまだまだ考えがまとまっておらず曖昧です)。

ちなみに、ここでの”情報”は「伝達可能かつ有用な記号」といった意味で使っています。

『世の中には順序あるぞ。それがカズタマ(数霊)、動くと音出るぞ。それがコトタマ(言霊)、ものには色あるぞ。それがイロタマ(色霊)』(黄金の巻 第七十帖)

『神の民の言葉は神たたえるものと思へ、てんし様たたえるものと思へ、人ほめるものと思へ、それで言霊(ことたま)幸(さき)はふぞ、それが臣民の言葉ぞ。わるき言葉は言ってはならんぞ。言葉はよき事のために神が与へてゐるのざから忘れん様にな』(下つ巻 第五帖)

この各段階における霊魂の〈徳〉による”はたらき”がそのものの”性質(本質)”となり、〈正義〉による他の存在との相互作用が”条件”となり、次の段階ではまた別の物質と〈愛〉によって結合し、さらに新たな一つの霊魂を獲得することで様々な性質を持った物質や構造物が段階的に生成されていくのではないでしょうか。

その全てが「道」であり、本質的には全ての存在が神様からの〈愛〉によって構造や組織を構成し、機能し、万物の”はたらき”となります。そのため、根本の大神様から〈愛〉されていないものは、この世界にも他の世界にもどこにも存在することはできないと考えます。

『そなたは世の中が悪いとか人がよくないとか申してゐるが、すべては大神の肚の中にゐて、一応 大神が許しなされて居ればこそ存在し、いのちしてゐるのであるぞ。悪くうつるのは心のかがみがくもってゐるからぞ。悪い世の中、悪い人と申すことは、神を悪く申し、神界が悪いのぢゃと申すのと同じであるぞ』(月光の巻 第五十帖)

『一切が自分であるぞと云うことは例へでないぞ。そなたは、食物は自分でないと思うてゐるが、食べるとすぐ自分となるでないか。空気も同様、水も同様ぞ。火も同様、大空もそなたぞ。山も川も野も海も、植物も動物も同様ぞ。人間は横の自分ぞ。神は縦の自分ぞ、自分を見極めねばならん。自分をおろそかにしてはならん。一切をうけ入れねばならんぞ。一切に向って感謝しなければならんと申してあろうが』(月光の巻 第三十一帖)

人体に関しても、完全に分解すれば物質的には素粒子の集まりでできていますが、それらがただ無作為に集まっただけで偶発的に人体のような複雑な構造を作り出し、さらには新陳代謝を繰り返しながらも継続的に同様の構造や遺伝情報を維持できると考えるのは非現実的なように感じます。

巨視的な”流れ”からの人間そのもの(人間の生成条件や性質を記した設計図のようなもの)の霊魂と結びつくことによって、微視的なそれらも進化の”流れ”の方向性を獲得し、さらに実現の段階に至るまでの進化の過程(時間の経過)があり、それを経てはじめて現実界に存在できると考えます。これはアリストテレスのいう「形相因」や「質料因」とも繋がる考え方なのではないでしょうか。

ひふみ神示には「心で描いて、心で先づつくり出してから行為する」や「心の世界にないものは物質の世界にない道理も判って居ろうがな」とあります。

『一に一たす一の世界、一に一たす無限の世界、超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ。そなたは心をもって居ろうがな。心があれば心の属する世界のある道理は判るであろうが。心で描いて、心で先づつくり出してから行為することも、その順序も判るであろうがな。心のうごきが先で、肉体がその後でうごくことも判って居ろうがな。心の世界にないものは物質の世界にない道理も判って居ろうがな。何故に迷ふのぢゃ。霊界が主で現界が従であること、判って下されよ』(月光の巻 第六十二帖)

例えば、巨大な建築物などの複雑な構造を設計する場合、頭の中に思い浮かんだものを、行き当たりばったりで”部分”から無計画に”全体”を描き出すよりも、本質的な”全体”のコンセプトを元にして具体的な”部分”に落とし込んでいく方が、秩序だった破綻のない設計ができるのではないかと思います。そして、実際の存在として物質化するときには、”部分”から組み立てていき”全体”を完成させるのではないでしょうか。このことからも、想念や概念は巨視から微視に向かい、物質は微視から巨視に向かうことが基本的な”流れ”だと思われます。

アリストテレスも『政治学』で「全体は必然的に部分より先なるもの」といっています。

自然本性的な序列からいえば、国家の方が家や個人(私たちの一人一人)より先なるものである。なぜなら、全体は必然的に部分より先なるものだからである。例えば、身体の全体が滅びたならば、足も手も存在しなくなるだろう

アリストテレス. 政治学(上). 三浦洋 訳. 光文社. 2023. p.34

国家や人体においても、基本的には構造全体が部分に影響を与え活動を規定し制約しますが、一部分の組織の機能不全が全体の活動を制限するなどの場合もあるため、全体と部分の関係は一方通行的ではなく、相互に影響を与え合っていると考えられます。

立立体から惟神の道へ

ひふみ神示には「立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん」とあります。

『立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。に到るぞ。立体に入るとは誠の理解生活に入ることぞ。無限に解け入ることぞ。イワトあけなば二二輝くぞ。弥栄々々』(黄金の巻 第百帖)

〈愛〉による霊魂の結合の一つを”立体”とし、各段階においての微視的な”流れ”からの結合全体を一つの”複立体”とし、同じく巨視的な”流れ”からの結合全体(退化の過程で残ったもの)を一つの”複立体”とし、双方が結合してある役割を担う一つの霊魂となったときに”複々立体”となります。そして、全ての段階を含む結合全体が、〈徳〉〈正義〉〈愛〉の全ての道において中道に至り、調和したときに”立立体(立々体)”として完成されるのではないかと解釈しています。

この双方からの”流れ”や”結び”によって自分という存在があることを理解し、意識して感謝をし、さらに全体の調和を目指すことで、神様と一体となった無限に解け入ることができるのかもしれません。

『一切に向って涙せよ。ざんげせよ。一切を受け入れ、一切を感謝せよ。一切が自分であるぞ。一切が喜びであるぞ』(黒鉄の巻 第二帖)

『どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるぞ。だから生きているのぢゃ。そのはたらき御用忘れるから苦しむ。行き詰る。御用忘れるから亡びるのぢゃ。個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用がある。御用大切、御用結構。日本が変って世界となったのぢゃ。自分の為ばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。悪の祈りには悪の神。善の祈りには善の神』(春の巻 第十四帖)

ですが、ひふみ神示には「神々様を此の世から追い出して悪神の云ふこと聞く人民許りとなりてゐた」とあります。さらに、「しめ」は「神々様をしめ込んで出さぬ為」で、「鳥居」は「釘付け」のためにあるのもだそうです。前々回に考察した「奇魂」「幸魂」「荒魂」「和魂」についても、バラバラにされて祀られている場合があると聞きますが、これも神々様の力を弱めるために行われているのかもしれません。

『天の大神様は慈悲深くて何んな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力ありすぎて、人民には手におへん見当取れん、そこで神々様を此の世から追い出して悪神の云ふこと聞く人民許りとなりてゐたのであるぞ。七五三(しめ)は神々様をしめ込んで出さぬ為のものと申してある事これで判るであろがな、鳥居は釘付けの形であるぞ、基督(キリスト)の十字架も同様ぞ、基督信者よ改心致されよ、基督を十字架に釘付けしたのは、そなた達であるぞ、懺悔せよ、とは外国の事ぞ、が神国の旗印ぞ、神国と外国との分けへだて誤ってゐるぞ。大き心持てよ』(アメの巻 第二帖)

『鳥居はいらぬぞ、鳥居とは水のことぞ、海の水ある それ鳥居ぞ。皆の者 御苦労ぞ』(下つ巻 第一帖)

『和つくれ。和はむすびぞ。何も彼も生れるぞ。いきするぞ。自分で勝手にしておいて親神を怨んでゐるぞ』(黄金の巻 第一帖)

人間は元の親神様をこの世からしめ出して、「自分(たち)さえよければいい」といった想念の悪神的な神様を長い間信仰してきたために、抑圧的な支配や衝突を繰り返す道を自ら歩んで神様に失望し、今では無神論的な考え方が主流になってしまったのではないでしょうか。

それでも、「神様は親、四角張らずに近寄って来て親しんで下されよ」とあったり、

『善ぢゃ悪ぢゃと騒ぎ廻るのぞ。大き一神を信ずるまでには、部分的多神から入るのが近道。大きものは一目では判らん。この方 世に落ちての仕組であるから、落して成就する仕組、結構。神様は親、四角張らずに近寄って来て親しんで下されよ』(黄金の巻 第六十九帖)

「人間の肉体は原則として真理の宿り給ふ神の生宮」や「人間が土台であるから、神の礎であるから、神しづまれば神人となるのである」といった記述もあり、親神様と人間の関係は切っても切れないようなものなのかもしれません。

『人間の肉体は原則として真理の宿り給ふ神の生宮であるから、下級霊は中々に入ることは出来ん』(龍音之巻 第十帖)

『元の元のからの中界を経て、ウの現界に到る悉くの世界が皆人間に関係あるのであるから、肉体はウであるが、魂はに通じてゐるのであるから、はヨロコビであるから、喜びが人間の本体であるから、神界と云ひ、現界と云ひ、一本の国であるから、人間からすれば、人間が土台であるから、神の礎であるから、神しづまれば神人となるのであるから、神界、中界、現界つらぬきて居らねば、マコトの和合して居らねば、マコトの喜びでないから、マコトの喜びが大神であるから、大神の働きは人間によるものであるから、心せねばならんぞ』(白銀の巻 第六帖)

親神様との繋がりをもう一度取り戻し、和合することで人間も本来の姿となり、「元の道」に返れるのではないでしょうか。

『道はいくらもあるなれど、どの道通っても、よいと申すのは、悪のやり方ぞ、元の道は一つぞ、初めから元の世の道、変らぬ道があれば、よいと申してゐるが、どんなことしても我さへたてばよいように申してゐるが、それが悪の深き腹の一厘ぞ。元の道は初めの道、神のなれる道、神のなかのなる初め、は光の真中は四の道、此の事、気のつく臣民ないなれど。「一が二」わかる奥の道、身魂掃除すれば此のことわかるのざ、身魂磨き第一ぞ』(富士の巻 第一帖)

『人の身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)となること嬉しいであろがな、惟神のミミとはその事ぞ、神示よく読めば判るのざぞ、此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ』(アメの巻 第三帖)

「三つの道」にはもう一つ、人の歩みが「神の道」と一体となり”神人”となった「惟神の道」という意味も込められているように感じます。

『惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿ざぞ。今の臣民 神無くして居るではないか、それで惟神も神道もないぞ』(アメの巻 第一帖)

『神代になりたら天地近うなるぞ、天も地も一つになるのざぞ、今の人民には分るまいなれど、神も人も一つ、上も下も一つとなって自づから区別出来て一列一平上下出来るのぢゃ』(んめの巻(ウメの巻) 第十六帖)

親神様を思い出すこと、感謝すること、和合すること、とけ合うこと、これらを目指していくことが重要だと感じています。

『自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなた達が和合することぞ。それを改心と申すのざぞ。和合した姿を善と申すのぢゃ。今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。地獄ないこと合点か。悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。合点ぢゃナア。各々の世界の人がその世界の神であるぞ。この世ではそなた達が神であるぞ。あの世では、そなた達の心を肉体としての人がゐるのであるぞ。それがカミと申してゐるものぞ。あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ。あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであって限りないのであるぞ。裏から申せば、神様の神様は人間様ぢゃ。心の守護神は肉体ぢゃと申してあらうがな。肉体が心を守ってゐるのであるが、ぢゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。何処迄も下に従ふのぢゃ。順乱すと悪となるぞ』(白銀の巻 第一帖)

『神が霊となり花むことなるのぢゃ。人民は花よめとなるのぢゃ。判るであろうが。この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。永遠につづく結びぢゃ。結婚ぢゃ。何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。よろこびぞ。花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。消えざる火の大歓喜ぞ。これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。早う神のふところに抱かれて下されよ』(月光の巻 第三十八帖)

おわりに

お疲れさまでした。今回もかなり長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

三回に分けて”立立体”から”霊魂の構造”や”二通りの竜神”の意味について考察してきましたが、これを書こうと思ったのは今年が辰年だったことと、自分の干支が辰で、今年で36歳になるからです。

中国などでは6と9が陰と陽を表していて、「六六変じて九九鱗となる」という諺があるそうです。”六六”は「鯉」で、”九九”は「龍」のことだそうです。36歳からいきなり81歳に変わってしまったら恐いですが、何かが変わるきっかけになってくれたらいいなという思いで書きました。コイキングからギャラドスに進化するということですね…?

それを意識して、「解釈6の1」の投稿は旧暦9月9日にしました。この日は「重陽の節句」や「菊の節句」といって”陽”の気が重なる日だそうです。「菊の御紋」とも何か関連がありそうな気がしますが、どうなのでしょうか?

あと、たまたまタイミングよく、6月13日のおそらく例祭の日に箱根の九頭龍神社(本宮)に参拝できたというのも、書く気持ちを後押ししてくれました。

またしばらく間が空いてしまうかもしれませんが、次回は”霊魂の構造”から導かれる”幸福の構造”について書こうと思います。それでは、また。

ひふみ神示 記事一覧

TAG