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禁断の果実と善悪なき世 – ひふみ神示 解釈8の1

今回は、「善悪の知識の樹」に実る「禁断の果実」の正体や、〈善悪〉の本質的な意味について考察します。いつも通り長ったらしいので、少しずつ読み進めながらお付き合いいただければ幸いです。

『この方この世のあく神とも現はれるぞ、閻魔とも現はれるぞ、アクと申しても臣民の申す悪ではないぞ、善も悪もないのざぞ、審判(さばき)の時来てゐるのにキづかぬか、其の日 其の時さばかれてゐるのざぞ、早う洗濯せよ、掃除せよ、磐戸(ゐわと)いつでもあくのざぞ、善の御代来るぞ、悪の御代来るぞ。悪と善とたてわけて、どちらも生かすのざぞ、生かすとは神のイキに合すことぞ、イキに合へば悪は悪でないのざぞ。この道理よく肚に入れて、神の心 早うくみとれよ、それが洗濯ざぞ』(磐戸(一八十)の巻 第四帖)

ひふみ神示を知らない方は、「 ひふみ神示 解釈1 」を読んでいただけると、少し分かりやすいと思います。全文は「 ひふみ神示データー 」というサイトに載っています。また、このサイトを参考にさせていただきながら、「スマートフォンの表示にも対応したサイト」を作成したので、こちらもぜひ覗いてみてください。

なぜ社会全体の幸福(最高善)を目指すのか

目的を定めることなく闇雲に進むだけでは、各局面での判断基準を持つことができず正しい方向に進めているかが評価できないため、場当たり的な判断で右往左往したり、偏った選択で同じところを旋回し続けてしまいます。そのため、政治においても目指す方向を定めることは重要です。

『キが到ればモノが到る。モノを求める前にキを求めよ。めあてなしに歩いたとて、くたびれもうけばかり。人生のめあて、行く先の見当つけずに、その日暮しの、われよしの世となり下がってゐるぞ。めあてはでないか。に向かないでウロウロ。草木より、なり下がってゐるでないか』(黒鉄の巻 第三十五帖)

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、「人間というものの善」を「政治の究極目的」としました。

人間というものの善ト・アントローピノン・アガトン」こそが政治の究極目的でなくてはならぬ。まことに、善は個人にとっても国にとっても同じものであるにしても、ポリスの善に到達しこれを保全することのほうがまさしくより大きく、より究極的であると見られる。けだし、もとより善は単なる個人にとっても好ましきものであるが、もろもろの種族エトノスやもろもろのポリスにとってはそれ以上にうるわしく神的なものなのだからである。われわれの研究はこうしたことがらを希求するものであり、この意味でそれは一種の政治学的ポリティケーな研究だといえよう。

アリストテレス. ニコマコス倫理学(上). 高田三郎 訳. 岩波書店. 1971(2022). p.20

そして、「善のうちの最上のもの(最高善)」とは「幸福(エウダイモニア)にほかならない」と述べています。

いかなる知識も選択も、ことごとく何らかの善を欲し求めている。だとすれば、われわれがもって政治の希求する目標だとなすところの「善」、すなわち、われわれの達成しうるあらゆる善のうちの最上のものは何であるだろうか。名目的には、たいがいのひとびとの答えはおおよそ一致する。すなわち一般のひとびとも、たしなみのあるひとびとも、それは幸福(エウダイモニア)にほかならないというのであり、のみならず、よく生きている(エウ・ゼーン)ということ、よくやっている(エウ・プラッテイン)ということを、幸福にしている(エウダイモネイン)というのと同じ意味に解する点においても彼らは一致している。

アリストテレス. ニコマコス倫理学(上). 高田三郎 訳. 岩波書店. 1971(2022). pp.23-24

幸福こそは究極的・自足的な或るものであり、われわれの行なうところのあらゆることがらの目的であると見られる。
しかしながら、最高善は幸福にほかならないと説明するのは、けだし、何びとにも異論のないことがらを語るにすぎないのであって、真に要望されるのは、さらに、幸福とは何であるか、ということが、より判然と語られることであろう。

アリストテレス. ニコマコス倫理学(上). 高田三郎 訳. 岩波書店. 1971(2022). pp.38-39

現代の国家や個人の多くは、〈欲望的部分〉を中心に”利益の最大化”を目的として〈理知的部分〉や〈気概の部分〉がそれに従属しているように思われます。ですが、〈欲望的部分〉の”超過”によって一部の国家や個人が贅沢する一方で、その影にいる者たちが生活に困窮するような状況は、これまでも数え切れないほど人類の歴史において繰り返されてきました。これは「裏の喜び」や「悲しみの喜び」であり、〈不幸〉であると前回で述べました。

このように、”贅沢の裏の困窮”という「裏の喜び」や「悲しみの喜び」よる”部分的な幸福”は、「政治の究極目的」にするにはあまりにもありふれています。また、「個人の究極目的」ではなく「政治の究極目的」であるからには、より”全体的な幸福”が相応しいと考えます。

解釈6の2」で述べたように、”一個人”と”一個人の集合である国家”の霊魂が「相似た」構造をしており、さらには”国家”と”国家の集合である国際”の霊魂の構造も「相似た」ものであると考えられるならば、アリストテレスの「政治の究極目的」という言葉には国際政治も含まれ、それが目指すところも〈最高善〉=〈幸福〉であるといえます。

そして、”一個人全体”と”手足などの部分”が構造として密接に結びついているように、社会においても”国家全体”と”国民などの部分”、”国際全体”と”国家などの部分”は密接に結びついています。そのため、それぞれの構造における”全体の幸福”と”部分の幸福”も密接に結びついているはずです。

“手足や臓器などの部分”に怪我や病気を患っていないときの方が、”一個人全体”も〈幸福〉をより享受できるものです。であるとすれば、”国家全体”における”国民などの部分”や、”国際全体”における”国家などの部分”に怪我や病気を患っていないときの方が、”人類全体”も〈幸福〉をより享受できると考えるのが自然です。

たまたま社会の情勢や地域の風土と、個人の境遇や気質が合致し、”幸運”な人生を過ごした人々は、これまでの歴史の中でも数多く存在したと思います。ですが、そういった人生をある時期まで過ごしてきた人でも、世間に恨みを抱く者の犯罪や、虐げられてきた国家の報復戦争などに巻き込まれることで”不運”に陥る可能性は十分にあります。この観点からも、”安心感”とともに”一個人”が本当の意味で〈幸福〉であり続けるためには、”人類全体”が〈幸福〉であり続ける必要があります。

一個人の部分的な幸福は、その人自身の努力や心持ちによる部分もありますが、それを個人任せにするだけでは政治の必要性はありません。前回、「〈幸福〉とは、魂の各部分が過不足のない”中庸”へ向かい続け、様々な段階の霊魂同士の関係において〈徳〉〈正義〉〈愛〉それぞれの軸で”中道”に至るための活動である」と述べましたが、これは”人類全体”を一つの霊魂として捉えたときにも当てはまります。

次の帖にある「人間を幸福にするのは心の向け方一つである」というのは、個々人の心の持ちようという意味もあると思いますが、社会が抱く共同幻想のようなものにも当てはまるのではないかと解釈しています。例えば、社会に属する大多数の人々が”AI時代に生き残るためには生存戦略が必要である”という共同幻想のもとで社会システムを設計すれば、”生き残れない人々を作り出すための社会システム”を皆で協力して構築し、自ら〈不幸〉な社会となってしまうのではないかと思います。そのため、”人類社会全体”が何を目的とするかによって、”一個人”のあり方もガラッと変わるのかもしれません。

『人間を幸福にするのは心の向け方一つであるぞ。人間はいつも善と悪との中にゐるのであるから、善のみと云ふこともなく悪のみと云ふこともない。内が神に居りて外が人に和し、内が霊に居り外が体に和せば、それでよいのぢゃ。其処に喜び生れるのぢゃ。神から出た教なら、他の教とも協力して共に進まねばならん。教派や教義に囚はれるは邪の教。豚に真珠となるなよ。天国の意志は人間の喜びの中に入り、幽界の意志は悲しみの中に入る』(黒鉄の巻 第十五帖)

貧困や戦争で苦しむ人々が存在する裏側で、現実から目を逸らしながら感じる「裏の喜び」は虚像のようなものであり、その”自己欺瞞”は〈不幸〉であると思われます。そのため、”一個人”が本当の意味で〈幸福〉に至るとき、それは”人類全体”が本当の意味で〈幸福〉に至るときなのかもしれません。

「しあわせ」という言葉の意味

「しあわせ(幸せ)」は「仕合わせ」や「為合(しあい・しあわす)」から変化したと考えられていて、「為合」という言葉には”辻褄を合わせる”や”事柄をぴったり合うようにする”といった意味があるそうです。このため、「しあわせ」という言葉には「人々の個別のはたらき(徳)をうまく調和させ適材適所に結びつける(為合)」といった意味があるのかもしれません。

また、「解釈6の1」では〈欲望的部分〉と〈幸魂〉を対応させましたが、”山の幸”や”海の幸”といった言葉で表されるように、食欲などの欲望を満たす恵みのことを「幸(さち)」といい、これを獲得するための狩猟採集的な活動に関連して”幸運”を意味する言葉が生じたのではないかと推察できます。ちなみに、「幸」の成り立ちは”手枷の象形”と考えられていて、「しあわせ」のイメージからはかけ離れているようにも感じますが、漁や狩りなどを含め”獲物を捕まえる”ことからあらわされた漢字なのであれば、分からなくはないように感じます。

「幸」と同じような意味を持つ「祉」や「福」は、どちらも神様との関係を表す”しめすへん”の漢字です。「祉」には”神からの恵みがとどまる“といった意味があり、「福」には”神へ捧げる酒“といった意味があるそうです。このため、「福祉」という言葉にはおそらく「神様から授かった恵みである”幸”をしっかりと受け止め、人の営みを経由して神様に感謝を捧げる」といった意味があるのではないかと思います。

これらを踏まえて〈幸福〉という言葉が意味するところを改めて考えると、「神様から与えられた恵みである”幸”を、人々の個別のはたらきをうまく調和させ適材適所に結びつけることでしっかりと受け止め保持し、社会全体に遍く行き届けるとともに神様に感謝を捧げるための活動」といった意味もあるように思われます。

このように、人々が互いや神々と息を合わせる(為合)ことで”偶然的な幸運”が”必然的な幸福”へと変わり、人々は無理することなく霊魂の各部分や各軸において”中”に近い状態を保つことができ、前回述べたような「〈徳〉における”肯定感”」と「〈正義〉における”安心感”」と「〈愛〉における”一体感”」が揃った”幸福感”とともに生きることができるのではないでしょうか。

『不和の家、不調和(ふわ)の国のささげもの神は要らんぞ。喜びの捧げもの米一粒でもよいぞ。神はうれしいぞ』(水の巻 第九帖)

『大切なもの一切は、神が人間に与へてあるでないか。人間はそれを処理するだけでよいのであるぞ。何故に生活にあくせくするのぢゃ。悠々、天地と共に天地に歩め。嬉し嬉しぞ』(黄金の巻 第九十八帖)

「武」という漢字の意味

ここは余談です。

「しあわせ」は「為合(しあい・しあわす)」から変化した言葉であると述べましたが、「為合」はさらに「試合」にも変化したと考えられています。「試合」というと、スポーツや武術などを連想できます。たとえばチームスポーツであれば、各選手の特性を活かした適材適所な配置(徳)、選手同士の駆け引きやチームメイトとの信頼関係(正義)、チームの一体感(愛)などが関係するため、霊魂の”為合”的な活動であることが分かりやすいです。

一方、武術の方は”為合”とはかけ離れたもののようにも感じますが、実は武術の本質も他者との向き合い(為合)方にあるのではないかと考えています。おそらく優れた武術家には、場への感謝(徳)、競技関係者との信頼関係(正義)、対戦相手への敬意や尊重(愛)などがあるのではないでしょうか。そのため、武術においての「しあわせ」というものもあるように思われます。

ちなみに、「武」の漢字の成り立ちには、”戈(ほこ)”を”止める”と”進める”の相反する解釈があるそうです。現在は”進める”ところにその意味があると考えられていますが、私見ではどちらの意味も含まれているのではないかと考えています。

なぜなら、優れた武術家であれば、試合の中で無闇には攻撃せず、”戈”を”止める”べきタイミングが適切だと思われるからです。また、試合の決着を見極める力も持ち、勝者のときには必要以上に相手を攻撃して再起不能にはせず、敗者のときでも負けを認められずに卑怯な手段で相手を攻撃したりはしません。つまり、優れた武術家はどちらの立場でも”戈”を”止める”べきときを知っているものです。

このように、ただ”戈”を”進める”ことしかできない人よりも、同時に”止める”べきところを知っている人の方が、武術家として達人の域に近いと感じるため、”武”という漢字にもその双方の意味が込められていると考察します。もしかしたら「とどめを刺す」という言葉は、”止めるべきところを刺す”行為を表現したものなのかもしれません。

ここまで余談でした。

禁断の果実と善悪の知識について

禁断の果実の正体

最初の人間であるアダムとイブ(エバ)が、蛇(サタン)に「神のように善と悪を知るようになる」とそそのかされ、神様から食べることを禁じられていた”善悪の知識の樹(知恵の樹)の果実”を採って食べたことにより、エデンの園から追放されてしまったという話は有名です。

ですが、人間はおそらくサタンのいうような「神のように善と悪を知るようになる」までには至っておらず、主観的な視点で”善”と”悪”を認識し、「自分にとっての善のみを選び取り、自分にとっての悪を排除するための利己的な”知識”」を持ってしまっているのではないかと思います。

そして、その”知識”がもたらす歪みの先には「裏の喜び(悲しみの喜び)」があり、これが「禁断の果実」の正体なのではないかと考えています。他者の悲しみや苦しみと引き換えに得られる利益などの果実は甘美なものですが、省みて悔い改めることなく獲得し続けようとすることで「罪の子」となってしまうのではないでしょうか。

二つ以上の霊魂において「歪みのある関係に実る喜びはサタン的な”裏の喜び”」であり、「歪みのない関係に実る喜びは神的な”表の喜び”」であると解釈しています。

“虚偽の契約で資産を騙し取る”ことや”軍需産業への投資によって利益を得る”といった行為が「禁断の果実」であることは想像しやすいと思います。ですが、一般的に善と思われる行為でも、それに該当する場合もあるように感じます。

例えば、貧しい人々や国々に対する寄付といった行為は、どんな場合でも善であるように感じられますが、それが長期にわたる場合、一方は施す側、もう一方は施される側として関係が歪んだまま固定化してしまいます。その歪みは、一方には蔑視する態度、もう一方には依存的な態度などを生み出し、それは双方にとっての〈不幸〉となります。

飢饉や災害など、一時的に寄付が必要になる状況もありますが、平時では寄付の仕組みによらなくても必要最低限の物資が人類全体に行き渡るようなシステムを構築するべきです。

『与えることは頂くことぢゃと申しても、度をすぎてはならん。過ぎると、過ぎるものが生れて、生んだそなたに迫って来るぞ』(月光の巻 第十五帖)

『もの与へること中々ぢゃ、心してよきに与へねばならんぞ。与へることは頂くことと知らしてあろうが、与へさせて頂く感謝の心がなくてはならん、強く押すと強く、弱く押すと弱くハネ返ってくるぞ。自分のものと言ふもの何一つもないぞ、この事判れば新しき一つの道がわかるぞ』(五葉之巻 第五帖)

善悪の知識

サタン的な「裏の喜び」を得るのではなく、神的な「表の喜び」を得るために、人間は〈善悪〉に対してどのように向き合えばいいのでしょうか。

これまでの人類の歴史を振り返ると、それぞれが独善的に〈善悪〉の基準を規定し、その基準に満たない者や、それに反する者を攻撃したり排除したりしてきました。こういった、独善的に〈善悪〉の基準を規定することこそが「善悪の知識の樹(知恵の樹)」であり、その歪みに実る喜びが「善悪の知識の樹の果実(禁断の果実)」といえるのかもしれません。

『善と悪とに、自分が勝手にわけて、善をやろうと申すのが、今の世界のあり方』(極め之巻 第四帖)

解釈6の2」で引用した老子の言葉も、これに関連した意味があると思われます。善い・悪いを為政者の都合で決めつけることで世が乱れ、人々の間に蔑みや争いが引き起こされます。学力の成績によって人の価値を判断することなども、社会の根本に歪みを生じさせる原因となっているように感じます。

人の賢愚は相対的なものであって一つに決めつけることはできない。それなのに為政者の都合で賢を決めつけてしまいがちだが、ある一方の面での賢を重視しなければ、人々は争わなくなる。同じく手に入れにくい財宝などの品も、それをたっとばなければ、人々は盗みなどしなくなる。欲望を見せなくすれば、人々は心を乱すことはなくなる。

こうして「道」と一体となっている聖人が政治を行うときは、人々の心をつまらない考え、知識で満たされないようにからっぽにさせ、腹いっぱいに食べさせ、人々の志がつまらない欲にとらわれないように弱め、身体を健康で強くするのである。いつも人々がつまらない欲と知識をもたない状態にさせ、いわゆる知者たちが人々をたぶらかさないようにするのである。このように、無為の政治をしていれば、うまく治まっていくのだ。

老子. 全文完全対称版 老子 コンプリート. 野中根太郎 訳. 誠文堂新光社. 2019(2021). pp.18-19

肉体にとっての善となる”食べて良いもの”は人間が独善的に決定することはできません。これと同様に、人間関係における倫理的な〈善悪〉の基準というものも、人間が勝手に独善的に規定することはできず、自己や他者、環境や状況と向き合い対話しながら総合的に判断していくものなのではないでしょうか。

『道徳、倫理、法律は何れも人民のつくったもの。本質的には生れ出た神の息吹きによらねばならん。神も世界も人民も何れも生長しつつあるのざ。何時までも同じであってはならん。三千年一切りぢゃ。今迄の考へ方を変へよと申してあらう。道徳を向上させよ。倫理を新しくせよ。法律を少なくせよ。何れも一段づつ上げねばならん。今迄のやり方、間違ってゐたこと判ったであらう』(秋の巻 第四帖)

善と悪について

有用(有益)と快適(快楽)な善

日本語で”善い”は”よい”と読み、”良い”と”好い”も”よい”と読みますが、これらはなんとなく意味が近いように感じるのではないでしょうか。善と感じるものの中には”有用(有益)”なものと”快適(快楽)”なものがあり、”良”の漢字は”有用(有益)な善”の場合に使われ、”好”の漢字は”快適(快楽)な善”の場合に使われると考えられます。例えば、「バナナよりイチゴがよい(いい)」の言葉には二つの捉え方があり、「ビタミンCを補うためにはバナナよりイチゴの方が”役に立つ(有用)”」といった意味には”良い”が、「バナナよりイチゴの方が”好み(快楽)”」といった意味には”好い”が当てはまります。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、この”有用(有益)な善”や”快適(快楽)な善”に基づいた関係について、「これらの愛は非本来的な性質のものでしかない」や「解消しやすき愛である」と述べています。

有用のゆえに愛しているひとびとは自分にとっての善を愛しているのであり、快楽のゆえにしているひとびとは自己にとっての快を愛しているのであって、すなわち、愛する相手の「ひととなり」(エートス)のゆえにではなく、かえって相手が有用であり快適であるかぎりにおいて愛しているのである。それゆえまた、これらのフィリアは非本来的な性質のものでしかない。ここでは、愛する相手は、彼がまさにそうであるところのひとたるかぎりにおいて愛されているのではなく、かえって、彼らが何らかの善または快楽を提供するかぎりにおいて愛されているのだから。このような性質の愛は、それゆえ、解消しやすき愛である。

アリストテレス. ニコマコス倫理学(下). 高田三郎 訳. 岩波書店. 1973(2022). p.91

これに関連して、「あしきひとびと」と「善きひとびと」の交友関係の違いについて次のように述べています。

あしきひとびとも、快楽のゆえに、または有用のゆえに⸺この方面でもしお互いに類似した人間であるならば⸺友となるであろうし、善きひとびとはお互い自身のゆえに、(彼らはすなわち善きひとびとたることにおいて類似せるひとびとであるから、)友となるであろう。後者が、それゆえ、端的に無条件的な意味における友であるのに対して、前者は付帯的な意味において、ないしは後者に類似しているものなることによって友たるのである。

アリストテレス. ニコマコス倫理学(下). 高田三郎 訳. 岩波書店. 1973(2022). p.99

これらの引用について次のような意味で解釈しました。

“非本来的な性質の愛”による”悪しき人々”の交友関係は、互いに自己にとっての有用(有益)性や快適(快楽)性を前提条件(主体)とした”付帯的な(条件付きの)結合”となり、その前提条件が失われた場合には解消されるような関係となる。

“本来的な性質の愛”による”善き人々”の交友関係は、互いに相手の「ひととなり」(存在そのもの)を主体とした”無条件的な結合”となり、結び付きを前提として有用(有益)性や快適(快楽)性が付帯しているような関係となる。

これら「悪しき人々」の”非本来的な性質の愛”と、「善き人々」の”本来的な性質の愛”は、「解釈6の3」で引用したバートランド・ラッセルの考え方とも類似しています。重ねて引用します。

この愛情においては、一方が他方の生命力を吸い取ってしまい、一方は他方の与えるものを受け取るくせに、お返しとしてほとんど何も与えない。活力にみちた人たちの一部は、この吸血型に属する。彼らは、次々と犠牲者から生命力をしぼり取る。ところが、彼らが栄えて、おもしろ味のある人間になるのに引き替え、食い物にされた人びとは青ざめて、影のうすい、つまらない人間になってしまう。この種の人たちは、他の人をおのれの目的のための手段として利用し、その人たち自身が目的だとは決して考えない。根本的には、彼らは、目下自分が愛していると思っている人たちに興味を持っていないのである。彼らは、おのれの活動に対する刺激⸺それも、おそらくはまったく非人間的な種類の刺激⸺に興味を持っているにすぎない。

バートランド・ラッセル. ラッセル 幸福論. 安藤貞雄 訳. 岩波書店. 1991(2022). p.202

「悪しき人々」が存在するということは、それと類似した「悪しき国々」も存在するということです。引用にある「”人間”や”人たち(人びと)”」を「”国家”や”国々”」に、「”他の人”や”自分”」を「”他国”や”自国”」に変換して当てはめてみると、こういった国々もたしかに存在していることが分かります。

ですが、青年期には力の弱い者から暴力によって金銭を強奪していた「悪しき人々」も、精神的な成長とともに改心していく可能性があるように(力の弱い者から金銭を強奪できるようになることを成長とみなすような野蛮な社会でなければ)、「悪しき国々」もまた成長とともに改心していく可能性はあるはずです。

「悪しき人々」と類似した「悪しき国々」が存在するということは、「善き人々」に類似した「善き国々」も必ず存在します。

二人の人間がお互いに対して真の相互的関心をいだいているという意味での愛情⸺つまり、お互いを幸福のための手段として見るだけではなく、むしろ、一つの幸福を共有する結合体だと感じる愛情は、真の幸福の最も重要な要素の一つである。

バートランド・ラッセル. ラッセル 幸福論. 安藤貞雄 訳. 岩波書店. 1991(2022). p.203

善や悪を捉えるための視点

企業と企業、会社と従業員、店員と客といった関係などは、本質的に”有用(有益)な善”や”快適(快楽)な善”を主体とした関係となり、アリストテレスのいうように、これらは利己的な「悪しき人々」の関係に繋がりやすいものなのかもしれません。ですが、〈正義〉に適った法律を正しく遵守しながら互いに歪みのない関係を心がけ、かつ本来的な関係のあり方ではないことをわきまえていれば、現行の社会においては認められていいものなのではないかと思います。

ただ、次の帖にあるように「よき世」となれば、そういった関係のあり方もなくなっていくのかもしれません。

『人力屋、酒屋、料理屋、芸妓(げいこ)屋、娼妓(しょうぎ)、無く致すぞ、世つぶす基(もと)ざぞ、菓子、饅頭も要らんぞ、煙草もくせぞ、よき世になったら別の酒、煙草、菓子、饅頭出来るぞ、勝手に造ってよいのざぞ、それ商売にはさせんぞ』(三ラの巻(ソラの巻) 第十三帖)

現行の社会においても大きな問題となるのは、多くの人々がその価値観に汚染され、”非本来的な性質の愛”と”本来的な性質の愛”が混同されて、社会に様々な歪みを生じさせてしまうような場合です。たとえば老子のいうように、”有用(有益)な善”ばかりを求めて卓越した能力を持つ優秀な人々にのみ注目して社会システムを構築すれば、多くの人々はその歪んだ社会の中で生き残るために学歴や成果の獲得競争で苦しみ疲弊し、生きづらい”有害”な世の中となります。

「過ぎたるは及ばざるが如し」と孔子がいうように、身体の健康にとって”有用(有益)な善”となるはずの良薬であっても、過剰に摂取すればむしろ”有害”となってしまいます。次の帖に「薬は毒、毒は薬」とあるように、善と悪に対しても多面的な視点で捉える必要があるように思います。

『昨日は昨日、今日は今日の風、昨日に囚われるなよ、人民の道は定まってゐるなれど、目の前だけしか見えんから踏み迷ふのであるぞ。薬飲んで毒死せんように致しくれよ、薬は毒、毒は薬ぢゃ、大峠にも登りと下りとあるぞ、馬鹿正直ならん、頭の体操、ヘソの体操大切ぞ』(五葉之巻 第七帖)

“障害者”と呼ばれる人々(天才・有能なサヴァン症候群の人々を除く)は、現行の金融・経済システムを基盤とした社会においては多くの人々に有用(有益)でないと考えられ、社会の型にはめるための無理な教育や訓練がなされているかと思います。ですが、(世間体の影響を受けず本人が望むなら別として)彼らに無理をさせて型にはめようとしなくても、存在そのものが有用(有益)だと考えます。

もし、”卓越者”のみならず”障害者”にも目を向け、彼らが彼らのままで生きやすい社会システムを構築できれば、”健常者”と呼ばれる人々が巻き込まれている激甚化した競争社会も鎮静化し、それに伴う自然環境破壊も抑制され、日常に浸透するサービスもシンプルで分かりやすいものとなり、多くの人々のみならず多くの生物にとっても生きやすい”無為自然”な世になるのではないでしょうか。この意味において、”障害者”という言葉は「”害”への”障(へだて・しきり)”となる者」となり、彼らが本来持っている〈徳〉の有用(有益)さを多くの人々が実感できるようになるのかもしれません。

善や悪と感じるもの

有用(有益)や快適(快楽)など、人間が主観的に物事を捉えたときに「”善”と感じるものには”引力(近づける力)”が働いている」のではないかと考えています。例えば、快楽をもたらす美味しい料理や、有益な卓越した才能には、”人を惹きつける引力”や”多くの金銭を獲得する引力”があります。

ですが、あるものを自分にとっての善と感じ、それを手に入れたいと望んだとしても、現実的に手に入らなければ善とは感じられず、逆に苦しみをもたらすものとして悪と感じる場合さえあります。目の前の美味しい料理に手を付けられない状態や、望んだ才能を手にすることができない状態などがこれに当たります。そのため、善はさらに”理想と現実を統一・統合するための引力”としての側面もあると考えられます。

西田幾多郎は善について「理想の実現、要求の満足である」や「内面的統一」を用いて次のように述べています。

善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば、この要求といい理想という者は何から起ってくるので、善とは如何なる性質の者であるか。意志は意識の最深なる統一作用であって即ち自己其者の活動であるから、意志の原因となる本来の要求或は理想は要するに自己其者の性質より起るのである、即ち自己の力であるといってもよいのである。我々の意識は思惟、想像においても意志においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においても皆その根柢には内面的統一なる者が働いているので、意識現象はすべてこの一なる者の発展完成である。

西田 幾多郎. 善の研究. 青空文庫. pp.141-142(Kindle 版)

解釈6の2」で引用したソクラテスやプラトンの言葉からも、善は引力的なものと関係していることが伺えます。

ではわれわれは、およそ国家にとって、国を分裂させ、一つの国でなく多くの国としてしまうようなものよりも大きな悪を、何か挙げることができるだろうか? あるいは、国を結合させて一つの国たらしめるものよりも、何か大きな善を言うことができるだろうか?

プラトン. 国家(上). 藤沢令夫 訳. 岩波書店. 1979(2022). p.416

この反対に、「”悪”と感じるものには”斥力(遠ざける力)”が働いている」と考えます。

例えば、ある競技者が”人々の注目を集める”ことや”多くの富を手中に収める”ことを目的に勝利を求めているとして、これらの”目的が持つ引力”と”目的と接近する引力”の両方が善と捉えられます。ですが、敗北は”目的と乖離する斥力”となる悪い効果をもたらすため、避け(遠ざけ)ようとするのではないでしょうか。

これら主観的な理想と現実の善と悪の関係は、プラスとマイナスの乗算のようなものになると考えています。理想善と現実善をプラス(+)、理想悪と現実悪をマイナス(-)と置き換えたとき、次のような式になります。

  • 理想善(+) × 現実善(+) = 善(+)
    • 好きな食べ物を食べられたとき
    • 勝利を望んで実際に勝利したとき
  • 理想善(+) × 現実悪(-) = 悪(-)
    • 好きな食べ物を食べられなかったとき
    • 勝利を望んで実際には勝利できなかったとき
  • 理想悪(-) × 現実善(+) = 悪(-)
    • 苦手な食べ物を食べてしまったとき
    • 敗北を避けようとして実際には避けられなかったとき
  • 理想悪(-) × 現実悪(-) = 善(+)
    • 苦手な食べ物を食べなくていいとき
    • 敗北を避けようとして実際に避けられたとき

善悪の時空間的遠近法

普通、善的なものは好まれるのに対し、悪的なものは嫌われるものですが、次の帖に「全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ」とあるように、全体的な事柄や将来的な事柄を見通す場合には、短絡的に善のみを選んで悪を排除しようとするべきではありません。

『今を元とし自分をもととして善ぢゃ悪ぢゃと申してはならん。よき人民 苦しみ、悪い人民 楽している。神も仏もないのぢゃと申してゐるが、それは人民の近目ぞ。一方的の見方ぞ。長い目で見よと申してあろうが。永遠のことわり わきまへよと申してあろうが。支払い窓は金くれるところ、預け口は金とるところ。同じ銀行でも部分的には、逆さのことしてゐるでないか。全体と永遠を見ねば ものごとは判らんぞ』(春の巻 第五十九帖)

特定の人々や組織を優遇するような、”個別的な部分にとっての善”の追求は、”包括的な全体にとっての善”とはなりません。これを経済用語では「合成の誤謬」といいます。社会や人体において、その構造全体を適切に維持するためには、”部分”と”全体”の関係に考慮しながら”引力(善)”と”斥力(悪)”のバランスを保つ必要があります。

社会的な運動による財力の分散などはある程度の苦痛を伴い、その時点では中枢が保有する資源に対する”斥力”となるため”悪”に感じられます。同様に、肉体的な運動もある程度の苦痛を伴い、内臓など中枢が保有する資源に対する”斥力”となるため”悪”に感じられます。一方で、中枢から遠方の市民や、身体の末端にとっては、お金や血液の流れが良くなることで欲している資源に対する”引力”となるため”善”に感じられます。

とはいえ、運動が悪の側面を持っていることには変わりなく、あまりにも激しい運動や休むことなく長時間の運動をしてしまうと、各組織に疲労やストレスが過度に蓄積し、運動をしないよりも早く全体の構造を崩壊させてしまうため、適度なものに止めておく必要があります。

このように、運動などの理性(理知的部分)を必要とする活動は一時的に苦痛を伴い、中枢からの視点で”近視眼的”に見ると”悪”となります。一方で、その行為が少量であれば”空間的遠方”や”時間的遠方”にとっては”善”となり、構造全体にとっても”善”となります。

その反対に、食事などの欲望(欲望的部分)を起因とする活動は一時的に快楽を伴い、中枢からの視点で”近視眼的”に見ると”善”となります。一方で、その行為が多量になると”空間的遠方”や”時間的遠方”にとっては”悪”となり、構造全体にとっても”悪”となります。

このことを「善悪の時空間的遠近法」と呼ぶことにします。

プラトン著『プロタゴラス』において、ソクラテスがプロタゴラスとの対話の中で語った「よいけれども苦しいもの」は、この「善悪の時空間的遠近法」の一例だと考えています。

「それでは今度は、彼らに、さきほどとは逆の質問をしたとします。『大衆諸君、きみたちは他方で、よいもののなかには苦しいものもあると言っているが、それは次のようなもののことではないだろうか?つまり、たとえば体育とか従軍、あるいはまた、[患部を]焼いたり切開したり、投薬や絶食などをする、医者の病気治療などだ。よいけれども苦しいものとは、このようなもののことではないか?』彼らは、そうだと言うでしょうか?」
プロタゴラスは賛成した。
「『では、きみたちがそれらをよいものと呼ぶ理由は、次のどちらだろうか?それらが、そのときに、極度の痛みや苦しみをもたらすからだろうか?それとも、時間がたってから、健康や体の好調さ、国の安全、他の人々に対する支配、富などがそれらから生じてくるからだろうか?』彼らは後者だと言うでしょう。わたしはそう思うのですが」
プロタゴラスは賛成した。

プラトン. プロタゴラス~あるソフィストとの対話~. 中澤務 訳. 光文社. 2010(2023). p.170

『悪と思ふことに善あり、善と思ふ事も悪多いと知らしてあろがな、このことよく心得ておけよ、悪の世になってゐるのざから、マコトの神さへ悪に巻込まれて御座る程、知らず知らずに悪になりてゐるのざから、今度の世の乱れと申すものは、五度の岩戸しめざから見当とれん、臣民に判らんのは無理ないなれど、それ判りて貰はんと結構な御用つとまらんのざぞ、時が来たら、われがわれの口でわれが白状する様になりて来るぞ、神の臣民はづかしない様にして呉れよ、臣民はづかしことは、神はづかしのざぞ。愈々善と悪のかわりめであるから、悪神暴れるから巻込まれぬ様に褌しめて、この神示よんで、神の心くみとって御用大切になされよ』(磐戸(一八十)の巻 第十八帖)

善悪とは何か

ここまで述べてきたとおり、

「”善”とは、調和、秩序、集中、結合、統合、同化、吸収などの”引力”的な”内に動く力”の総称である」

「”悪”とは、混乱、混沌、分散、分離、分裂、分化、放射などの”斥力”的な”外に動く力”の総称である」

と考えています。

次の帖には「玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ」とあり、ここにある「内に動く御力」と「外に動く御力」が”善”や”悪”と認識されるものの正体ではないかと考察しています。

『玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、それでちりちりばらばらぞ』(富士の巻 第三帖)

また、「三種の神宝(三種の神器)」の「鏡」は”同化”や”平坦(凪)”といった意味、「剣」は”分化”や”起伏(波)”といった意味を象徴しているのではないかと解釈しています。

一般的に”悪”は完全に排除すべきものと考えられていますが、ひふみ神示には「神には人のいふ善も悪もないものぞ」とあり、「悪も元ただせば善である」ともあります。

『神がこの世にあるならば、こんな乱れた世にはせぬ筈ぞと申す者 沢山あるが、神には人のいふ善も悪もないものぞ。よく心に考へて見よ、何もかも分りて来るぞ。表の裏は裏、裏の表は表ぞと申してあろうが、一枚の紙にも裏表、ちと誤まれば分らんことになるぞ、神心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ』(上つ巻 第二十帖)

『悪も元ただせば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地にごりて来るぞ、世界一つに成った時は憎むこと先づさらりと捨てねばならんのぞ』(三ラの巻(ソラの巻) 第八帖)

また、「悪も善もないと申してあらうがな、和すが善ざぞ、乱すが悪ざぞ、働くには乱すこともあるぞ、働かねば育てては行けんなり」や「悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ」ともあります。

『善と悪と取違ひ申してあらうがな、悪も善もないと申してあらうがな、和すが善ざぞ、乱すが悪ざぞ、働くには乱すこともあるぞ、働かねば育てては行けんなり』(ア火ハの巻(アホバの巻) 第十一帖)

『我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ、雨の神どの風の神どのにとく御礼申せよ』(天つ巻 第二十三帖)

これらの記述は、人間が考える独善的で利己的な〈善悪〉の基準はなく、本質的には現象としての〈善悪〉のみがある、という意味に解釈しています。「この道理分りたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ」の意味は捉えづらいですが、次のような意味に解釈しました。

誰もが誰かにとっての”善”になる可能性と”悪”になる可能性を同時に持っていることを理解しながらも「お人よし」になって自分を押し殺しはせず、意見を伝えるのと同時に他者の意見に耳を傾けながら互いに尊重し合い力を合わせている人々が本当の意味の「善人」である。

この解釈において「千人力」という言葉は文字通りで、一人の力を千人の力に喩えるのではなく、”大勢の人々が調和し協働しているときに生じる力”といった意味に捉えています。

『落ちてゐた神々様、元へお帰りなさらねば この世は治まらんのであるぞ。一人一人ではいくら力ありなされても物事成就せんぞ。それは地獄の悪のやり方。一人一人は力弱くとも一つに和して下されよ。二人寄れば何倍か、三人寄れば何十倍もの光出るぞ。それが天国のまことのやり方、善のやり方、善人、千人力のやり方ぞ』(黄金の巻 第九十四帖)

『天界に住む者は一人々々は力弱いが和すから無敵ぞ。幽界に住む者は一人々々は強いが孤立するから弱いのぞ。仲よう和してやれと申す道理判りたか』(黄金の巻 第七十二帖)

森羅万象あらゆるものは、〈善悪〉のどちらかに偏ることなく、双方のバランスによって成り立っています。例えば、人間などの多細胞生物は細胞分裂(悪)があって成長し、細胞機能の分化(悪)によって構造全体が形成されますが、ただ分裂や分化するのみでは形態を保てずに崩壊してしまいます。細胞間結合(善)によって細胞同士が結びつき、組織がそれぞれの機能を果たしながら連携することによって人体を維持できます。

『悪も神の御働きと申すもの。悪にくむこと悪ぢゃ。善にくむより尚悪い』(黄金の巻 第九十七帖)

政治や経済に関しても同様に、権力や財力の分散(中枢にとっての悪)によって商品やサービスが国民全体に行き渡ることで、国家や会社組織なども成長を維持できますが、分散するのみではそれらの組織は形態を保てずに崩壊してしまいます。国家や会社組織などに権力や財力がある程度集中(中枢にとっての善)することで形態を維持し、それぞれの機能を果たすことができます。

多細胞生物においては”分裂”や”分化”と”結合”、政治や経済においては”分散”と”集中”といった、あらゆるものが”悪(斥力)”と”善(引力)”の力のバランスによって成り立っていることが分かり、双方を同列に扱う必要があるのではないでしょうか。

『善では立ちて行かん、悪でも行かん、善悪でも行かん、悪善でも行かん。岩戸と申しても天の岩戸もあるぞ、今迄は平面の土俵の上での出来事であったが、今度は立体土俵の上ぢゃ、心をさっぱり洗濯して改心致せと申してあろう、悪い人のみ改心するのでない、善い人も改心せねば立体には入れん、【此度の岩戸は立体に入る門ぞ】』(五葉之巻 第十一帖)

おわりに

お疲れさまでした。今回は、〈不幸〉な歪みのある関係に実る喜びが「禁断の果実」であることや、独善的で利己的な視点ではなく多面的で全体的な視点で〈善悪〉を捉えることの重要性などについて書きました。例に漏れず、またまた長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

次回は”霊魂における善悪”や”中道や外道の善悪”、そして”善悪なき世”について考察します。

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